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真祐美からひとこと2024年

2015年~2017年      2018年~2023年 



 2024年12月3日(火)

 今年最後のコンサートが終わり「祭のあとの寂しさ」を感じます。それはどなたでも経験する感情なのでしょうか。この度もご好評をいただき嬉しく思っておりますが、それに慢心してはいけないと心しております。

 今日は近鉄文化サロンの日、お一人ずつ感想を伺いました。私がステージから降りて後ろのテーブル席まで歌いながら歩いていきます時、スポットライトが当たらず暗かった、それが残念だったと。担当の方とのツメが甘かったと気づきました。
他は問題なく、考えに考えた選曲で良かったと一安心しております。
 ジャン・フェラの『ただそれだけの人生でも』の繰り返しを皆さまにも歌って頂いたのはとても良かったと全員一致の感想でした。

 花束をたくさん頂戴し、花瓶に入れたものを写真に撮りました。全部でなく失礼いたします.
 
 2024年12月2日(月)

 コンサート翌日の今朝、数日ぶりにラジオ体操に行きました。心も身体も平常にもどすにはまず日課のラジオ体操に行くことと思いました。頂いた花束を花瓶に生け全部の荷物の整理が終わりましてもまだまだ大事な用事が待っています。
 パソコンメールと携帯メールを開きますと昨日の感想をお寄せ下さっている。どんなに嬉しいことでしょう。何の反応もないのはさびしいもの。
 場所が変わりますと家での声と会場での声が違うように感じます。誰もいない部屋で一人で歌うのとお客さまの顔がずらーと並び目の前にお顔があるのとでは歌い方も変わります。けれどそれは私自身の問題で、お客さまが「楽しかった」「良かった」と思って下されば何よりもの幸せ喜びです。
 来年新年号の『真祐美通信』にご感想を掲載したく、ここでご紹介することができないのですが、一つ面白いなと思ったのは、ずっと私の歌を聴きに来てくれている友人が「今回の曲目はいつもと少し違ったわ」と。どこが違うのかはあえて訊きませんでした。私も感じているからです。毎日歌っても新鮮な気持ちで思いを馳せて歌えたのです。
  
 2024年12月1日(日)

 ランチコンサートは無事終わりました。お陰さまで満席、素晴らしいお客さまに囲まれて心から歌うことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。
 司会の高橋魅恵さん、ピアニスト石田美智代さん、ヴァイオリンREIKOさん、そして受付やいろいろな役を引き受けて下さった皆さまにこの場を借りてお礼申し上げます。
 遠くからお越し下さったお方さま、お忙しい中を駆けつけて下さった皆さま、ありがたく思っております。

 今日のプログラムは
 バラ色の人生、古いパリの岸辺で、ロマンス、いつ帰ってくるの?、街燈、貴方の愛がなければ、貴方とランデヴー、街角のアヴェ・マリア、理由もなく、ただそれだけの人生でも、愛の讃歌、アンコールはトワ。

 解説を入れながら歌を聴いて頂きました。何なりと是非ご感想を伺いたいです。

 花束やお心遣いを頂戴した皆さまにお礼を申し上げたいのですが、お名前が分からない方がおられ、まことに申し訳ございません。まことにありがとうございました。取り急ぎお礼申し上げます。
  
 2024年11月30日(土)

 猛暑の頃から準備を始めたランチコンサートはいよいよ明日になりました。皆さま無事にお越し下さいますようにと祈る気持ちです。お蔭さまで私は風邪もひかず怪我もなく今日まで過ごすことができました。コンサートホールやホテルの大広間と違い狭い会場ですので、目の前にお客様、という感じです。

 アーモンは聴きに来ませんでした。「終わりました」の報告に行きましたらすぐ傍に甘えにきました。
 明日ご出席下さる皆々さま、どうぞお気をつけてお越しくださいませ。お目にかかれるのを楽しみにお待ちしております。
   
2024年11月29日(金)

 いつも『ひとこと』を書くのはいろいろな用事を済ませた夜でした。遅くなりますと翌朝に差し障りますので、考えに考えての文章ではなく、早く仕上げた文章のため、翌日になって間違いや書き足りなかったことに気づくことが多々ありました。
今日もそうです。昨日書いたことがどうもひっかかっていました。まず、お涙頂戴という言葉は使いたくない言葉なのです。そして薄っぺらい涙や薄っぺらい笑いには抵抗があります。こんな屁理屈をこねず、ここで泣かそう、ここで笑わそうという誘いに素直にのって涙する方がいいのかもしれませんが。

 音楽評論家で訳詞家の永田文夫さんが40年前に『世界の名曲とレコード シャンソン』(誠文堂新光社)という本を出しておられます。シャンソンのことを知らない方に知っていただくには永田文夫さんの文章をご紹介するのが一番だと考えています。
 かいつまんで言いますと、~世界各国のポピュラーソングの中で、フランスのシャンソンほど豊かな内容をもっているものはない。シャンソンの中に人生の縮図を見る。シャンソンほど歌い手の個性が尊重される芸術はない。歌手も作者と同じようにその歌の中に人生観を反映させてゆく~

 歌い手の生き方と歌は一体化されているわけで、歌を聴いてくださるお客さまは自由な心で楽しんでいただければ嬉しいです。
 
 今パソコンところへアーモンが来ました。膝に乗せてキィーボードをたたいています。(キィーボードを打つ時、キィーボードのアルファベットを見ながらですと打てないのです。不思議です。指が覚えているのです)
 さて今からレッスン。このぶんですと私についてきて歌を聴いてくれそうです。
   
2024年11月28日(木)

 今日はNHK文化センターシャンソン教室の日でした。ピアノの生伴奏でのレッスン。3曲復習をしてから新しい曲に入りました。モーリス・ファノンの作品『スカーフ』は恋人との思い出のスカーフを通して二人の思いを切々と語った歌です。淡々としたなかに情感のこもった曲で、日本人シャンソン歌手も多くレパートリーにしています。フランスと日本とでは国民性が違うと思いますのにどういうわけかシャンソンは日本人の心にひたひたとしみ込んでくるものがあるのです。明るく陽気であけっぴろげな歌は少ない。私の周りの女性に歌の好みを訊ねましても、しっとりとしたせつない歌が好きだという声が多いのです。それも恋の歌が。
 シャンソンに限らず愛の歌を歌っておりますと、国や性別をこえて人の感情に大きな差はないのだと痛いほど感じます。いわゆるお涙頂戴というのは、涙をさそうようなメロディや歌詞、芝居ではセリフ演出効果音だったりでセンチメンタルな感情に染める。深い感動とは違い悪くい言えば安っぽさを感じていました。ところが以前ある人が「歌を聴いて感傷的なって涙が出るのはいいこと」とお涙頂戴を肯定されたので、「そういうものか」と思ったのでした。感動や悲しみや喜びで涙が出るのは出ないよりずっといい。もっとも辺りかまわず大声で泣くのは問題外。

 今日のアーモン、最後の曲になっても聴きに来ませんでした。それでまた猫ベッドへ行きまして、「終わりました」と報告した途端にゃーんと言って寝床から出てきました。
   
 2024年11月27日(水)

 パソコンを習っておいて本当によかった、とつくづくありがたみを感じています。1997年(平成9)の9月でした。ケースに入ったノートパソコンを買いゼロからのスタート。今年で27年目になります。先生は村木博子さん。ワープロもまったくできない私でしたから教えるのは本当に大変だったと思います。今でも分からないことだらけで、アクシデントがおきると夜中でも電話して助けを求める状態です。
 パソコンを使う前に出したエッセイ集は全部手書きでした。紙をどれほど丸めて捨てたことか。もったいないことをしていました。分からない漢字は辞書を引きひき、今では考えられません。原稿を書く時はパソコンを開けて書式を設定し、キィーボードに手を置いてとにかく打ち始めます。すると言葉が出て来て何とか糸口が見つかります。こんな内容、こんな文章は駄目だと思いましたら全部また書き直します。てにをは、一つ考えるのにも時間がかかる。表現したい言葉が出てくるまでどれだけ時間がかかることか。さっさっと書くことが出来ません。しんどくても書くことはとても大事だと思いますのは、書いているうちに考えが整理されてきて、それまで思いつかなかったことを気づかされることがあります。
 大阪の実家に戻ってからしばらくして英文タイプを習ったことがありIBMのタイプライターでキィーボードを見ないで打てるようになりました。ブラィンドタッチと言うのですね。パソコンはタイプライターのキィーボードの文字の配列と同じですので、無理なく打てて英文タイプが役立っています。面白いもので、キィーボードのどの位置に何のアルファベットがあるかは覚えてないのですが、まず定位置に手を置きますと考えなくても指が動くのです。
 31年続けている『真祐美通信』もパソコンがなければ作成できませんし、冊子『インフォルモ』の原稿書き、エッセイ集を出すこともホームページを開くこともできませんでした。資料つくりや案内状やら、毎日パソコンを開けない日はない生活になりました。この『真祐美からひとこと』に写真を入れられるようになったのも村木博子さんのお蔭。まだまだ半人前の私ですが。

 今日のアーモンはお腹がすいていたのか部屋を出たり入ったりしていましたので途中でカリカリをやりに行きました。満足しましたら最後まで聴いておりました。
   
 2024年11月26日(火)

 今度のランチコンサートの歌は何年ぶりに歌う歌なのか調べてみました。コロナ禍前の2019年サンケイホールで歌ったのは2曲、中には14年ぶり29年ぶり32年ぶりというのもありました。自分でいうのは恐縮ですが、どれもいい曲だと思います。
 シャンソンを初めて聴くというお客さまもいらっしゃるのでどのように受け止めて頂けるか楽しみです。同じ歌でもある方はせつないさがお好きでもある方はうっとおしいと感じられるかもしれません。音楽はその方の心の状態如何で感動したり何も感じなかったりするものではないかと。そうであっても少しでも聴いてくださる方の心に沿うような歌を歌いたいと思うばかりです。

 なぜか今日は猫アーモンは聴きに来ませんでした。それで猫ベッドまで見に行き、「終わりました」と報告。 
   
 2024年11月25日(月)

 名のよく知れた方のことを書きますと自慢話みたいですが、そんなつもりはなく、有名人好みでもありません。ただエピソードとしてお話するだけです。人と出会っても本当に親しくなれるのはごくごくわずか。1回お会いしたことがあるという話です。三笠宮百合子さまが101歳で亡くなられたので、三笠宮家の長男の寛仁さまひげの殿下にお茶をお持ちしたことを思い出していました。(昔話ばかりしますが)40年くらい前、ひげの殿下は身体障碍者のスポーツに心を寄せられ、整形外科医とも親交がおありでした。ある時、医師の柔道の会がありそれに寛仁殿下が来られることになり、整形外科医で柔道をしていた故大阪体育大教授市川宣恭先生から、殿下にお茶を差し上げる役目をおおせつかりました。家にある湯呑では失礼だろうと思い、茶たくと湯呑を買いに行きました。わざわざ買いに行きましたのに選んだのは普通のお湯のみでした。緑茶をお運びしましたがお飲みになったかどうか覚えておりません。市川先生は「私は記念にスリッパをいただくね」と言われ、私は茶たくとお湯のみを記念にいただきました。宮さまの湯呑み、家の飾り棚に入れてあります。
 
 2024年11月24日(日)

 歌手とバンドとで客席が盛り上がり会場が熱気に包まれる光景をテレビで見たことはありますが、私が聴きに行ったものでは聴衆が立ち上がってライトを振るコンサートはありませんでした。若いファンが集うライヴは、静かに心して聞くより自分も参加するスタイルが楽しいのでしょうね。大きな声援で歌詞がよく聴こえないのではないか、歌い手のモニターはかなりしっかりした音を返しているのかしら、と気になります。自分の声がはっきり聴こえなければ歌えない。お客さまに聴こえる音と歌い手が聞く音とは違いますので、歌いやすい音響の時は声も出やすく疲れません。いつものように歌っているつもりなのになぜこんなに歌いにくいんだろうという時があり、それは本番にならないと分からない。リハーサルと本番では違うのです。一切注文をつけなくてもいい時もあり、会場、機材、オペレーターで大きく左右されます。5月に出演した『中之島まつり』では野外ステージでリハーサル無しでしたがとても歌いやすかった、つまり歌に集中できました。
 1週間後のライヴ、どんな状況でもその時の自分の最善を尽くそうと思っております。
  
 2024年11月23日(土)

 『銀巴里』の出演料が安いと言って文句を言う人は一人もいませんでした。もっとも他の方のギャラを詮索するのは失礼で、大先輩の歌手がおいくらなのか全く知りません。私が初めて出演料を頂いたのは『銀巴里』でした。53年前。私などプロとは言えずシャンソン歌手の玉子の玉子。ステージが終わるとボーイさんが薄い茶色の封筒に入ったギャラを4人の歌手に手渡されるのです。中を開けますと、450円が入っていました。1割が税金ですから新人は500円です。そのうち少しあがって900円でした。『銀巴里』の出演で生活しようなどと思う人はおりませんし、他のライヴハウスよりうんと低額でも『銀巴里』で歌うことはそれだけ意味のあることでした。お客さまは耳の肥えた方が多い。宴会のアトラクション的な歌は通用しない世界でした。声が悪くても個性の光っている人が伸びる。ダメだと判断されたら下ろされることもあったようです。
 なにしろ53年前ですから私のレパートリーもわずか、銀巴里社長の作本さんが何か特徴を出させようと思われたのですね、フルートを習っていた話しを覚えておられ、私に歌の合間(間奏)にフルートを吹きなさいと言われたのです。今思いますと何とまあ無謀なこと『銀巴里』のステージでフルートを吹くなんて。プロのバンドの方々の前で。何回吹いたものの無理だと思いすぐにフルートはやめてしまいました。
 作家には文体があるように歌い手は声の特徴やレパートリーの傾向で個性が生まれてくるのですが、どのような曲を選ぶかどんな歌い方をするかは、その人の生き方。人生観と言いますか。私の歩みは遅い。50年かかってようやく今の段階です。 
 
 2024年11月22日(金)

  テレビの音楽番組でシンガーソングライター特集を放映していましたので見ていました。『青葉城恋唄』のさとう宗幸さん出演。それから美輪明宏さんが『ヨイトマケの唄』を。この唄を作られたのは1964年昭和39年、丸山明宏の時代です。
今の美輪さんの歌でなく若い頃の映像で、黒のズボンに白のシャツ、実に男らしく姿も歌も見事でした。私の個人的な感想では、美輪さんの歌の中で『ヨイトマケの唄』が一番いい。
 丸山明宏=美輪明宏さんのお陰で東京銀座の『銀巴里』がシャンソンのメッカのようになり、シャンソン歌手になるには『銀巴里』に出演しなくては一人前ではないとされていて、シャンソン歌手の登龍門、憧れの場でした。まったくのひよっこだった私もともかく『銀巴里』に出られるようになるまで頑張ろうと思っていました。歌が上手かったわけでなく当時の状況で思いがけず幸運にも1971年昭和46年に初めて出演できることになりました。丸山明宏さん、戸川昌子さん、金子由香利さん、シャンソンではないのですが、長谷川きよしさんも。仲代達矢の弟の仲代圭吾さんや古賀力さん、素晴らしい先輩達と同じステージに立てるのは夢のようなことでした。新米の私、厚かましくも『銀巴里』でトリをとれるようになるまで頑張ろうと思いました。新人はまず昼の部に出演し、ステージが始まる前に皆さんの譜面を預かってバンドの楽屋へ持って行く。演奏が終わりますと譜面をきちんと先輩にお返しする役目があります。狭い楽屋は歌手4人が座るスペースしかありません。男性も女性も一枚の横長の鏡の前で同時に顔を整える。「おはようございます」とカーテンを開けて入って来られた女性歌手は一瞬どなたかしら、と思うのですが、お化粧をするにつれていつもの歌手の顔になっていく。着替えるのもその狭い男女共同の楽屋でじょうずに手早く行います。
 歌手にとって楽譜は命、宝。大先輩の楽譜は変色し、角が破れていたり、書き込みがいっぱいあったり。今のようにコピーした譜面を使うことはありませんでした。コンピューターで作った譜面でなく、全部手書きの譜面です。お金がなくても写譜屋さんに譜面書きをお願いしなければならない。もしくは自分で書きました。他人の譜面を使うことはありえないことで、人に貸したりあげたりはしません。ポピュラーな歌や印刷された楽譜の歌なら自由に歌いますが、他の方が大事にしている歌を許可なく歌うことはいたしません。けれど当然のマナーが崩れかけている気がいたします。
 長くなりましたので、今日はこのへんで。
 
 2024年11月21日(木)

 昨夜は寝る時間が遅くなり、今朝は5時の目覚ましを止めて二度寝したため6時前の起床となりました。長居公園でのラジオ体操には間に合わないので7時前までゆっくりすることにしました。またまた猫の話になりますが、アーモンが朝まで腕枕で寝ていましたので起きづらかったのも理由の一つです。
  
 昨日はじめてインターネットで買い物をしました。デパートに売っておらず、インターネットで検索しましたらすぐ見つかりましたのでこの方法しかないと思い、入力しているうちに何とかなりました。けれどどんなものが届くか楽しみでもあり心配でもありです。名前を入れる時に2回入れたらしく、宛名の欄に私のフルネームが二つ並んでいて修正したくても出来ず変な具合です。これも、きっと慣れでしょうね。

 今日ランチコンサートの司会をして下さるフリーアナウンサーの高橋魅恵さんと打ち合わせをいたしました。長いお付き合いで気心の知れた方、一緒に仕事をするのは楽しいです。私より若い。
 兵庫県知事選の話やインターネットの情報はどこまで信用できるかの話や危機管理の話、谷川俊太郎さんの話やらお能の話やら、話題は尽きずでした。

 アーモン今日はなかなか歌を聴きに来ないので暖かい猫ベッドで眠り込んでいるのだと思っておりましたら、あと3曲というところでやってきてちゃんとスピーカー前で聞いていました。
(猫の写真ばかりで気がひけますが)
 
 2024年11月20日(水)

 今までジョイントコンサートでたくさんの歌手の方と共演しました。プログラムには記録が残っていますが、一緒に撮った写真はほとんどありません。有名な方にお会いしても一緒に記念写真を撮ってもらおうという熱心さがなかったのです。
 コンサートの当日、会場に着きますとスタッフの方々に挨拶をしてそれぞれの楽屋に入ります。先輩の方の楽屋へ挨拶に行き、また私の楽屋へ挨拶に来て下さる方もいます。その後は楽屋にこもって準備に入りますので他の方の楽屋へしゃべりに行ったりしたことがありません。モニターを見ながらリハーサルの進行具合をチェックし、そろそろ自分の番だと分かったら下手か上手に行ってスタンバイ。全員のリハーサルが終わりますとフィナーレの稽古。どんな順番にステージに出て行くか、みんなでコーラスをする時はマイクは誰が持ち、適当な時に隣りの人に渡す。お辞儀のタイミング、手の振り方などなど。全部のリハーサルが終わりますと本番までまた楽屋にこもる。本番が始まりますと緊張感がただよいます。最後に緞帳が下りて「お疲れ様でした!」と声を掛け合い、また楽屋へ戻り帰りの支度。
付き人と山ほどの花束を抱えて帰る人、売れ残ったCDを持って一人でさっさと帰る人いろいろです。日頃は交流がない方々と1日だけ顔を合わせる、あっさりしています。私が知らないだけかとも思いますが。
 ですから38年前に美輪明宏さんのリサイタルにゲスト出演させてもらった折りも、挨拶以外お話する機会はありませんでしたし、写真をお願いするなんて出来ませんでした。どなたの時も同じ、貴重な想い出として胸のうちに留めておきます。
  
 2024年11月19日(火)

 友人が外出したついでにコーヒーケトルとポット、ドリッパーを買いにデパートに行ったところ品不足で買えず、歩くのが少し困難で再び街まで出るのが一苦労とのこと。私に何か出来ることがあれば、と思っていましたので、さっそく品物がありそうな店に行き一揃い買って宅配便で送り届けました。友人は「去年から欲しかったんだけど入院していて買えなかった。嬉しい」と喜んでくれました。それにしてもデパートなら何でも揃っていると思うのは間違いだなあと思いました。
 今日は私がどうしても買いたいものがありデパートに寄りました。何回か売り場を訊きながらやっとたどり着いたものの、サイズがない、これは見本で売り物ではないとか言われ結局買えませんでした。店員さんはそっけなく「ここにあるものだけです」とひとこと。インターネットや通販で買う人が増えてデパートは余分な数の品物は置かないのでしょうか。他のデパートにも電話をかけて確認しましたが、要領を得ない返事でしたから無駄足になっても見に行くしかありません。
 インターネットでの買い物になれていない私は時代の波に乗り遅れているのですね.。

 さてアーモン、今日は自分でレッスン室のドアを開け先にソファで待っていました。途中から顔を隠して眠っていました。
  
 2024年11月18日(月)

 以前何かで読んで心に残っている言葉がありました。彫刻家の佐藤忠良氏が話されたこと。「僕はずいぶん貧乏もしたけど、自分の作品を買って下さいと言ったことがない。なぜなら僕の作品を見なくても人は生きていける。それでも僕の作品が好きで傍に置きたいと言ってくださる人がいれば買っていただきますけど」。佐藤忠良氏と私では月とすっぽん世界が違い過ぎますが、私が自分で企画し開催を決めたコンサートは自分でチケットを売らなくてはならない。歌は私。自分自身であるチケットを買って下さいと言わなければコンサートは成り立ちません。とてもつらいことですが、コンサートをすると決めた以上そのつらさは覚悟しなくてはならないと言い聞かせております。お蔭さまで12月1日は満席になりました。万難を排してお越し下さる皆さまに心からお礼申し上げます。
 
 アーモン、昨日はギーとドアを開けて最初から私の歌を聴き、今日は遅刻したので走り込んできました。
  
 2024年11月17日(日)

 早朝、ゴミを外に出すため裏に出ましたら外はまだ真っ暗。空の一点が明るくて思わず空を見上げました。大きな真ん丸の光り輝くお月さま。急いでスマホを取りに入り、あらためてお月さまを眺めました。5時30分です。美しいお月さまを写したくて場所をさがしましたが木が邪魔をしてなかなかシャッターが押せない。ようやく一ヵ所見つけました。それがこの写真です。 私の目にははっきりしたお月さまでしたのに、写真にしますとぼやけていました。きっと上手な撮り方があるのでしょうね。ラジオ体操に出かける時には外はもう明るくお月さまの姿も霞んでいました。

 シャンソンとパリはきってもきれないなか。『シャンソン・ド・パリ』朝日出版社にはこう書かれています。~シャンソンとパリ、この二つの言葉は燦然たるかがやきを放っている。パリと聞くとだれでも、光の街をよろこびの街を(略)思い浮かべる。 歌は人の心の表現。シャンソンは時評的なものから純粋な恋の歌までさまざまな種類があるが、風刺的で、ちょっぴり革命的である。また文学と深く結びついている。~
 
 パリという街はフランス人にとっても憧れの地だと聞きます。政治、学問、芸術、ファッションもすべてパリが中心。シャンソンの題名に「パリ」が入っている歌が多く、『シャンソンのアーティストたち』薮内久著を参考に調べてみますと約100曲。まだまだあると思います。その中の一つ『古いパリの岸辺で』は今から86年前1938年の作品で、リュシエンヌ・ドリール(1913~1962)が歌ってヒットしました。セーヌのほとりで愛し合う二人をテーマにした美しいシャンソンで私の好きな歌の一つです。ドリールの声は甘いアルトでビロードのような滑らかな声。この歌を歌う時、幸せな気分になるエッセンスが秘められている気がいたします。リュシエンヌ・ドリールの歌で絶唱は『ルナ・ロッサ』だという評論家がいます。赤いお月さまという意味。『古いパリの岸辺で』は今度のライヴで歌います。
 
 2024年11月16日(土)

 『理由(わけ)もなく』という歌は私の作詞、さとう宗幸さんが曲をつけてくださった楽曲です。シャンソンやその他の名曲がある中で、私の作った歌をリクエストして下さったり、この歌は好きだと言って頂くととても嬉しい。
 『理由もなく』で私が言いたかったことは、人は誰でもいつか生命の終わりがくる。どんなに幸せでも。さびしさ悲しみは宿命。けれど愛する人と共に生きたい、共に死にたいと思うのが恋ではないか。

 ある時、母校の先輩がこう言われました。「人間だれもが心に埋めることの出来ない空間を持っている。それを埋められるのは富や名誉ではない、家族、友人、恋愛、仕事、趣味それらは大切なものではあるが、真に空間を埋められるものではない。それを埋めることができるのは、いろいろな宗教を超越した本当の神(真理)のみ。『理由もなく』の歌詞には人間の内面を見つめた奥深いものを感じる。空間を歌っている。」と。それを聴いて以来、心の空間という言葉が頭に焼き付いて離れなくなりました。さとう宗幸さんのつけて下さった曲が私の歌詞を引き立てて下さっている、と感じます。
 
 2024年11月15日(金)

 ランチコンサートにお越し下さる方のお名前を確認しておりましたらなかなかキリがつかず、今日はこのひとこと、お休みいたします。
 今日はアーモン遅刻しましたが最後まで聴いておりました。
 
 2024年11月14日(木)

 歌のレッスンをしていますと必ず猫のアーモンが入ってきます。今日も来ました。じっと聴いていて尻尾を音楽に合わせて動かしています。たまに来ない時があってどうしたのかと思っていますと、慌てて遅くなったという顔をして飛び込んできます。座って歌っていると膝の上に乗ってくるのですが、重くてずり落ちそうになる。それでもゴロゴロと喉を鳴らしているのは音楽が分かっているのでしょうか。

 今わたしはパソコンに向かっています。アーモン今度は急いで机に飛び上がりキーボードに乗ろうとするのでそれだけは勘弁してくださいと、横に行ってもらいました。
 今度のライヴのMCを考えている最中にふと私たちは普と言っているけれど、何の略だろうと調べました。「Master of Ceremonies」の略で、進行役や司会者のことを意味するとあります。人のことをMCと言うとは知りませんでした。ライヴでの歌と歌の間のおしゃべりの意味ともありましたので、間違いではなかった。1曲ずつ歌の解説をしてから歌いますとせっかくの場の空気や流れが切れてしまうことがありますので、しゃべらない方がいいこともあります。でも解説しないと何の歌か分からない場合もあり、そんなこんなでまだ思案中です。
  
 2024年11月13日(水)

 リサイタルを始めた頃、演出家に演出を依頼していました。自分ではどうすればよいか分からなかったからです。近鉄小劇場では湊裕美子さん、サンケイホールで行うようになってからは内海重典先生、しばらくしてアン・あんどうさんの演出でした。自分の力は限られていますので、有能な演出家によって自分の知らない部分を引き出してもらえる可能性がある。そう思ってお願いしていたのですが、ある時から音楽監督のピアニストと相談しながら自分で台本を作ることにしました。なぜこの歌を歌いたいのか、なぜこの歌を聴いて頂きたいのかを自分の言葉で語りたいと思いました。しかし何事も何年も続けていますとマンネリ化してお客様が厭きられる。だからと言って毎年毎年新企画を考えることにエネルギーを費やしますと軸がブレてしまいます。いつかどなたか私のことを理解して演出して下さったら面白いだろうな、と夢想しています。
 
 2024年11月12日(火)

 今朝の新聞で元駐ペルー大使の青木盛久さんが85歳で亡くなられたことを知りました。お会いしたことはありませんが、ペルーの日本大使公邸で起きた人質事件の時、私のCD『芭蕉布』をリクエストして下さった話をのちに聴き、お名前が頭に残っておりました。個人的に存じ上げない方についてはなんの情報も入ってまいりません。唐突に陶芸家の加藤孝造さんはお元気かしらと思いました。
2010年に人間国宝になられてからはお目にかかる機会がありませんでした。インターネットで検索したところ、昨年4月に88歳で亡くなられていることが分かりました。新聞に載っていたでしょうに知らずにおりました。加藤さんと親しくされている方とご一緒に名古屋のライヴハウスに聴きに来て下さり、コンサートを企画して下さったことも。また多治見の山奥に陶房を持っておられ、登り窯や茶人の佇まいのようなお家を見せていただきました。1994年に発刊した冊子『インフォルモ』第1号で初めて工芸の原稿を書いたのは加藤孝造さんの取材記事でした。

 長くお会いしない方が知らないうちに亡くなられていることが多くなりました。

←1994 Summer 1号 『インフォルモ』
ハナイカダと黄瀬戸
可児市の陶陶房に加藤孝造さんを訪ねる
 奧田真祐美
  
 2024年11月11日(月)

 11月11日、16年前の2008年に奈良・五條の藤岡家住宅で「復元工事完成(開館)記念式典」が行われました。前日、中之島の大阪市中央公会堂でリサイタルを終えた私は翌朝早くクルマを運転し五條へ向かいました。セレモニーで歌うためです。五條市の木はクスノキ、藤岡の家にもクスノキがあり、お祝いの席で『クスノキのうた』を披露できたのは嬉しいことでした。
 ふるさととは生まれ育った土地なら私のふるさとは今住んでいるところ。五條の藤岡の家は母方の祖母の生家ですから私のふるさととは言えないけれど母は二言目には「五條の近内」と言って懐かしがっておりましたので感化され、私も懐かしさを感じるようになりました。大叔母の藤岡うた代さんが亡くなってから30年間空家になっていたのを孫の藤岡宇太郎さんが修復し、登録有形文化財となって11月11日から一般公開されるようになりました。管理はNPO法人うちのの館として館長・学芸員の川村優理さんらが運営に当たって下さっています。 
 二上山、葛城山を右にクルマを走らせますと金剛山が見えてきます。 大叔父藤岡長和(俳号玉骨)の書斎から金剛山がよく見えますので一度登ってみたく千早赤阪村から歩いたのも忘れられない思い出です。

 開館から数年は数々のイベントを催していましたが、コロナになってからは数が減りました。イベントはなくても3ヶ月毎に蔵の展示室には興味深い資料や貴重な品々が展示されるので、川村さんの緻密な研究を多くの方に見に来ていただきたいと思わずにいられません。何かの専門家や研究をされている方は遠くからも足を運ばれおり開館から16年経った今も新しい発見があると川村さんは言われます。 
 建築家出身の洋画家・中西繁さんは五條に関心を持って下さりご案内しました。見学後「藤岡家住宅 修復と活用の記録」を完読され「素晴らしい本、職人さんたちの活躍、思い入れが伝わってきた。建築家としてもとても感動した」と言ってくださいました。
 世の中には多くの記念館や文化財が存在し、存続の努力は並大抵ではないと推察されます。年内に時間をみつけて五條の風にあたりに行きたいと思っています。
  
 2024年11月10日(日)

 ランチコンサートまで3週間となり打ち合わせに会場へ。話がスムーズに運び後は風邪をひかないように、怪我をしないように気をつけながらの生活です。そしてこまごまとした事務的な用事が待ち受けています。コロナで何年間か空虚な日々を過ごしましたので、することがあるというのは人間にはどんなに大事なことかと切に思います。同時に静かな時間、落ち着いた時間も大事にしたい。
 12月1日のランチコンサート会場の写真です。心斎橋ニューオオサカホテル。地下鉄心斎橋8番出口から徒歩2分です。
 
 2024年11月9日(土)

 久しぶりにクラシックのコンサートに行きました。丁度1ヶ月前、新聞広告で「日本テレマンコンサート」が11月9日の午後に大阪美術倶楽部で行われることを知り、即チケットを購入しました。1963年に日本テレマンを創設した延原武春さんとは面識があり是非聞きたいと思いまして。延原さんは指揮者、オーボエ奏者でバロック音楽からベートーヴェンが専門。コンサート会場の大阪美術倶楽部は明治43年に創立で数々の変遷を経て現在の新しい建物になりました。 
 初めての場所、初めて聴く延原さんのオーボエ演奏。チェンバロ、コントラバス、チェロ、ビオラ、ヴァイオリン3名。曲目はテレマン、バッハ、ヴィヴァルディ、ラヴェルの名曲のほか、日本の春の海や山田耕作の作品やら。弦楽の素晴らしい演奏で知らない曲もしかと心に響きました。
 昨年テレマン創立60周年をむかえられて、しっかりファンがついていることを感じた演奏会でした。
  
 2024年11月8日(金)

 3週間前に落ちたカリンの実の写真を載せました。落ちると衝撃で傷がつきますのでまだ枝についている綺麗な形のものを取っておきました(左の写真)今日はそれよりも大きな実が落ちていました。大きい実は直径16センチ。

 この間少しばかり驚いたことがありました。知人が「奧田真祐美さんは出かけるのがお嫌いだと聴いているのであんまりお誘いしてはご迷惑だと思って」と言われるのです。「えっ!私、そんなことを言った覚えはありませんわ」「そうなんですか。それでは今後お誘いしますね」と。そこで考えました。自分では言ったつもりがなくても紛らわしい言い方をしたのかもしれない。あるいはどなたかが私に代わって言われたのかもしれない。 身近な者同士でしたらすぐ誤解が溶けるのですが、そうでなければ遠慮もあってそのままというのが多い。
 出かけるのが嫌い云々は、「私は家が好き」とはっきり言うからかもしれません。家は好き、出かけるのも好き。これくらいのことでしたら問題はないのですが、大事なことを事実と違って認識されていたら、こわいことです。
 ちょっとした言葉の行き違いで誤解が生じて大事な人間関係が壊れることは避けたい。肝に銘じています。 
 
 2024年11月7日(木)

 今日は二十四節気の立冬。1年の季節を春夏秋冬と4つに分け、さらに1つを6つに分けると24つ。それぞれ季節を表す名前がつけられている。立冬は秋分と冬至の中間で、暦の上では今日から冬になるのですね。本当に今日から寒くなりました。足元には暖房を入れていました。
 猫のアーモンにも猫ベッドを用意しました。

 昨日、エディット・ピアフの名前を出しましたので今日は女性シャンソン歌手で私の好きなイザブレ・オーブレを。オーブレの声には品があり、とても心地よい。オーブレはジャン・フェラの作品を多く歌っていて、フェラの歌を聞き比べますと二人のそれぞれの良さが分かります。 
 『ただそれだけの人生でも』というシャンソンは、詩はルイ・アラゴン、曲はジャン・フェラ。 フェラの歌も素敵ですし、オーブレの歌も素晴らしいのです。永田文夫さんに訳詞をお願いし、2008年のリサイタルで発表しました。この歌を17年歌っていることになります。アラゴンの詩を忠実に訳した歌詞ではなく永田文夫さん流の意訳です。普通の日常を見事に表されており、~ただそれだけで人生は、でもそれだけで.素晴らしい~と繰り返えす。毎日の生活の大切さが心に刻まれます。 甘い恋の歌と異なり人生を描いているのですが、最後の4番の一節だけ女性の気持ちを語っています。
 ~私という人間は愛しい貴方のほほえみ一つで幸せになれる~
 12月1日のランチコンサートで歌う中の1曲です。
 
 2024年11月6日(水)

 エディット・ピアフの歌でフランス人が最も好んでいるのは『バラ色の人生』という統計があるそうです。日本でシャンソンを知らない人でも『バラ色の人生』は聴いたことがあるメロディだと思います。この歌が作られたのは1944年で戦時中。ムーラン・ルージュにピアフが出演したとき前座で歌ったイヴ・モンタンと出逢い二人は恋に落ちた。 『バラ色の人生』はピアフとモンタンが愛し合っていた頃の作品です。ある日ピアフの頭に「彼が私を抱くと私には物がバラ色に見える」という歌詞が浮かんだとか。女性が恋をすると抱く素直な気持ちなのですね。戦時中は暗くて重い歌より明るくて甘くやさしい歌が好まれました。
 
 私のエッセイ集『私のひとりごと』の中の『バラ色の人生』に書いた文章の1部から。~ほんとうの愛とはバラの色は変わってもより深い絆が確かな二人の歴史をつくってゆくのだろう。うわついた人生でなく、充実した人生こそ「バラ色」。もちろんその中には好きな人がいる人生というのも含んでいる。だから「人生はバラ色」といえる人と巡りあいたいのである。~

 1996年(平成8年)に奧田真祐美と行く南フランスの旅というツアーの最後にパリのライブハウス、ラパン・アジルに寄りました。 おそらくそこへ行けば1曲歌うことになるのではと思い『バラ色の人生』の譜面を用意しておきました。ラパンアジルはマイクを使わない店。マイクなしで初対面のピアニストが弾く伴奏に合わせて日本語で歌った『バラ色の人生』。歌う度にパリのライヴハウスを思い出します。
 
 2024年11月5日(火)

 シャンソン教室でのレッスンが終わりますと有志でお茶を飲みます。コーヒーとケーキは疲れを癒し、皆さんとのたわいもないおしゃべりはとても大切な時間だと思っています。今日は88歳になった方がいてレッスンの前にハッピーバースデーを歌いました。その方は教室に入って37年ほどになります。時間があるとプールに行き、一人でもきちんと食事を作り、庭仕事もする。80歳と言ってもおかしくないのです。もう一人同じくらいの年齢の方が来られていて、その方は卓球をし、絵手紙を描き、今が一番幸せだと。そしていつもときめいていたい。ただ周りにはなかなかそういう男性はいないけれどと言われます。そして、野球の話に盛り上がる。私は野球もサッカーも分からないので皆さんの話を聴くだけです。野球の話題が一通り済みますと次は、自分と同じ88歳の知り合いは偏食で肉しか食べない。それでも健康だという話。今行われているアメリカの大統領選はトランプかハリスか。 円安、株高の話などなど。私のこのひとこと(ブログ)を見るにはどうしたらよいか、とスマホで見るやり方を説明。2週間に1度、教室で会って歌い、雑談をする時間は貴重です。人は会話が多いほど親しくなれる。そんなことを思う日々です。
 
 2024年11月4日(月)
 
 今朝裏のドアを開けましたら知らないネコが塀の上に登っていて私の顔をじっと見ているのです。思わず「あっ、どうも、おはようございます」と言っておじぎをしてしまいました。普段から知らないネコが何匹もよく庭で遊んでいます。鬼ごっこをしたり、木に登ったり。毎日やわらかい土のところでする糞を掃除するのは日課です。数匹分の糞はかなりの量です。 私は御飯はやっていないのでせめてトイレくらいは使わせてやろうと思っています。 ネコにエサをやるな、と書いたビラを目にすることが多くあります。野良ネコが増えると困る、迷惑だということでしょう。ネコの嫌いな人はネコの身になって考えることが出来ません。ネコを愛する人はネコの身になって考えてしまうのです。 元はと言えば人間が物のように捨てたネコが野良になって増えてしまう。今は昔よりまだマシで、地域ネコと言って飼い主のいないネコを住民が世話をしていることが多くなりました。私の近所でも1日に2回、10匹ほど家のないネコたちに御飯をやっている方がいます。捕まえて避妊、去勢手術もしています。そういう方をみると頭が下がります。お金もかかりますし、時間もとられます。周囲の非難の目に対して立ち向かわなくてはならない。けれど寒い冬でもじっと外で座っている姿を見たり、食べるものがなくてお腹をすかせているネコを無視することなど出来ず手を差し伸べる。虐待や殺処分のない世の中にしたいという思いでいっぱいです。思いだけでなく行動に移す方々は本当にえらい! 
 私は元地域ネコだったアーモンを家族に迎え入れ、可哀そうなネコを1匹助けることが出来ました。いえ私がアーモンに助けられているのかもしれません。
 
 2024年11月3日(日)

 日本画家の上村淳之さんが91歳で亡くなられたことをたったいま知りました。私が奈良のご自宅でお目にかかったのは2000年、24年前のことでした。 紹介して下さる方がいて冊子『インフォルモ』で対談することになりました。お祖母さまの上村松園さんの「焔」という絵に惹かれ、エッセイにも書いたことがあるので、その孫の淳之さんにお会いできるのは嬉しいことでした。たくさんの鳥と暮らしておられるのは奈良と京都の県境にある丘陵地。広い敷地はまるで鳥の動物園のようでした。当時260種類、1500羽ほど飼っておられ、コレクションではなく同居してもらっているのですと言われていました。
 松園、松篁、淳之、3代にわたり日本画家で皆さま文化勲章を受章されている。
才能はやはり血筋なのかと思うのですが、淳之さん曰く「続いたのはたまたまです。ただ子どもの頃から絵に関するものを見ていたから興味を持たないほうがおかしい」。高校3年生の時に絵描きになりたいと言ったところ両親に猛反対され、一人暮らしを始め、その頃から鳥との繋がりが出来たと伺いました。
 淳之さんの貴重なお話を埋もれさせてしまうのはもったいないので、『インフォルモ』に書いた文章を少し書かせていただきます。

 絵を描くというのは対象を再現することではなく、自分が五感を通じて夢想した理想の世界を具現化すること。いつでも一番いい世界を夢想できる心境にあることが大事。より美しい、より真実の、より清らかな世界を夢想していないと低俗な格調のない絵になる。
 絵はイメージの具現化、残像の世界。熟知しているはずの花でも鳥でも必ずデッサンから始めるのは、自分の中に蓄積されてきた世界が、今年はどんな美しいかたちで見えるかを期待しながら初心に立ち返る。内面を確かめるためにスケッチをするのです。 
              
 他にも壁にぶつかる問題についてのお話もありました。
 お目にかかった時はまだ67歳でいらした。鳥たちは今も新しい生命を繋いでいることと思います。 
 安らかなおねむりをお祈り申し上げます。
 
 2024年11月2日(土)

 9月に映画『シサム』を見て以降テアトル梅田(旧シネ・リーブル)で4本の映画を見ました。今日は今年になって22本目『時の行路』を見に尼崎アルカイックミ二へ。尼崎駅に降りますと土砂降りの雨でした。 以前にも紹介しましたように画家の中西繫さんが企画された映画で知人に声をかけ8人が参りました。
 リストラにあった派遣労働者が組合を作り、会社を相手に裁判を起こす。主人公の妻は最終の裁判の日にガンで息をひきとる。裁判は敗訴、ハッピーエンドの映画ではなく、やりきれない結末でした。 実際にあった話を田島一が小説にしたのでこれが現実の社会の一面なのですね。 
 労働者側の立場、経営者側の立場、主人公の家族の立場があり、映画を見ている者はそれぞれを客観的に見ることが出来ます。 けれど当事者は自分の立場から物事を考えますので、主人公の家族からすると「妻が危篤なのに帰ってこないとは何事か、組合と家族とどちらが大事か!」となります。 映画を見ている者は裁判を抜けることができない状況がよく分かります。
 また仮に派遣労働者が経営者となった場合、弱者を大事にし優遇することが出来るかどうか。 
 そして裁判というものは本当に公平で正しいものなのか考えさせられました。
 
 2024年11月1日(金)
  
 私がロシアへ行ったのは1998年6月、ソ連崩壊から7年後、今から27年前でした。当時の大統領はエリツィン。2年前にロシアのウクライナ侵攻が始まってからロシアを耳にしない日はありません。以前旅行したロシアを思い出しました。
 私が旅行にロシアを選んだのは、その年の1月にテレビでイコン画の山下りんのことを放送していて、とても関心があり、またサンクトペテルブルクの美しさに魅せられ「行きたい」と思ったのがきっかけです。飛行場もホテルも照明が暗かった。
 6月のそのころ、サンクトペテルブルクは白夜でした。ちょうど芸術祭の時期でしたからマリンスキー劇場の最前列で世界的指揮者ワレリー・ゲルギエフの指揮する演奏を聴いたり、バレエを見たり。山下りんが模写の勉強に通ったエルミタージュ美術館も見に行きました。その時ツアーの世話をしてくれた人はアルバイトでガイドをしているという大学の助教授で、大学の給料が数か月遅れているという話をされていました。
 短いロシアの観光旅行の一つの収穫はアーラ・プガチョワのCDアルバムを買ったことでした。アーラ・プガチョワは『百万本のバラ』を歌った歌手です。帰国して早速CDアルバムを聞きましたところ、その中の1曲に強烈なインパクトのある歌がありました。音域が広く、間奏のエレキギターの演奏には胸を搔き立てられました。意味は分からなくても 一度聞いただけで心に残り、この歌を日本語で歌いたいと思いました。ロシア語の分かる方におよその意味を教えてもらい、アン・あんどうさんに日本語の歌詞をたのみました。それが『しあわせな3日間』という歌です。自由と平和のために戦いに行く人との3日間を歌っています。原曲をそこなわないようなアレンジにしてもらい、サンケイホールのリサイタルで本邦初演で歌い、CDアルバムにも入れました。機会があればもっと歌いたいし、聴いて頂きたいのですが、ピアノだけの伴奏では歌えないのです。厚みのある楽器がいる。エレキギターがいる。狭いところでは歌いにくい。CDを聴いて頂くほかありません。
 重く暗いドラマティックな歌ですが、戦いを奨励している歌ではなく、これもまた深い愛の歌です。ただし、原詩と日本語の歌詞とはおそらく大きな開きがあると思います。曲のイメージとロシア語を訳した単語を元に訳詞家の感性で書いたものですから。
  
 2024年10月31日(木)

 シャンソンを歌っていてつくづく感じることがあります。訳詞者は男性が多い。 男の方なのになぜこんなに女の気持ちが分かる歌詞が書けるのだろう 。今度のランチコンサート12曲の内、9曲は男性、3曲は女性の訳詞です。私は女ですから男性の心理がなかなか分かりません。シャンソンの訳詞で言えば、なかにし礼さん、永田文夫さん、古賀力さん、矢田部道一さんなどなど。女性でなければ分からないような情景、情感が描かれていて、おそらく(勝手な想像で失礼いたします)多くの恋愛経験を通して書かれているのでは、と。女性の気持がよく理解できるから書けるのか、男性でも同じ気持ちを味わうものなのか。頭の中だけで書けるものなのかどうか。お名前をあげた方々はもう鬼籍の入られているので尋ねることが出来ません。 もし私が男性の立場の歌詞が書けるかと考えましたら、女性からみた男性として想像で書けるかもしれません。男性の歌詞を書くことはありませんが。
 知人の女性は恋愛経験がないまま結婚したという84歳。せつなく、くるおしいシャンソンはよく理解できるし心にしみ入ると言われていました。恋愛経験がないのはたまたま恋愛の対象になる人と出会えなかっただけで、誰でも誰かを愛し愛されたいもの。なのですね リクエスト曲に恋の歌が多いのは人は幾つになっても恋心をなくさない表れだと思いました。
 
 2024年10月30日(水)

 初めて女性の庭師さんに会いました。先日、40年来庭のことをお願いしていた庭師さんが高齢のため看板をおろすと言われ、これからの方をさがしていました。伝統野菜の活動をされている友人の難波りんごさんを通して泉佳保子さんを紹介して頂き、そして泉さんから庭師さんを紹介して頂きました。若い女性庭師さんです。80歳を過ぎた親方も来られ、「私は作業服か着物しか持っていない。着物でパリに行きましたらモテました」と。ユニークで愉快な親方です。女庭師さんはとても感じのいい方で、私の意向を汲み取って下さり、安心してお願い出来る方だと分かりました。
 我が家の庭は秩序がない。月日の流れと共に無秩序になってきました。雑木林なら雑木林で調和がある。出来ることなら気持ちを変える意味でも雰囲気を変えたい。でもそれは贅沢なこと、今あるものを大事にすべきだという声がきこえてきました。
 
 2024年10月29日(火)

 今日も新聞記事を読んで、のお話をいたします。朝日新聞朝刊、見出しは「輪島塗 必ず伝承できる」小見出しは~被災した人間国宝が伝えたい思い~
 沈金の重要無形文化財保持者前史雄さんのお写真を見て、思わずお元気でいらしたのだと安堵いたしました。
 今年の1月1日に能登半島地震がおきた時、真っ先に能登の漆芸家・前史雄さんのお家は大丈夫だろうか、と思いました。2008年1月に冊子『インフォルモ』の取材で能登へ行き前史雄さんにお会いしたことがあるからです。17年前でした。工芸の門外漢の私はインタビューする時、読者の気持ちになってお話を伺おうと思い、初歩的な質問を重ね、原稿を書きました。原稿はご本人に目を通していただくのですが、インフォルモの会社の方から「前さんが原稿をとても褒めて下さっている。何部か欲しいと言われている」と聞き、大きな励みになりました。
 今朝の新聞記事によりますと、自宅兼工房は全焼し、下絵、図案、ノミ、顔料、先代の作品など全てを失った。能登に戻るめどはたっていないと。 何とお辛いことか、辛いどころではない。胸が苦しくなりました。 記事の最後に前さんの素晴らしい言葉がありました。
 「創作を続ける根本にあるのはものづくりが好きだという気持ち。自分たちが作品づくりを続けていけば、技は必ず伝承していけるはずです」


写真は「インフォルモVol.56」 2008年春号
前史雄さんの作品と奧田真祐美のインタビュー記事
 
 2024年10月28日(月)
 
 昨日は衆議院選挙投票日でした。戦後3番目に低い投票率だったとか。世の中の関心が高いのではと思っていましたが、残念です。
 またまた猫を登場させて恐縮です。テレビの選挙結果を見るアーモン。

 来年の手帳を購入しました。愛用しているのは能率手帳で1979年から使っています。手帳を使い始めたのは1971年で54年間、ずっと捨てずに置いてあります。ですから何年何月何日どんなことがあったか、簡単にメモしておくだけでも世間の様子から自分の心身の状態まで分かります。
 生活全般においてシンプルが好きでなるべく物を少なくしたい、趣味に合わないものは置きたくない。子どもの頃から片付けが好きでしたから三つ子の魂百までですね。それでも資料や記録や思い出の品は捨てられない。手帳もいつか処分する時が来るでしょうが、今はまだ捨てられません。
 
 
 2024年10月27日(日)

 今朝の新聞で感動した記事がありました。朝日新聞の『窓』という欄です。見出しは、受刑者の手紙で気づいた本の力。刑務所で服役している無期懲役囚から翻訳家の向井和美さんに宛てた手紙がきっかけで月2回ほどの文通が始まったといいます。記事に受刑者の手紙が紹介されており、~刑務所では厳格な規律を守ることが最優先で、償いや反省について考えを深める余裕がないこと、どうしたら償えるのか悩む中、読書を通して自分の人生と向き合い始めたこと…~この言葉に胸を打たれました。そして父親から受けた虐待が強く影響していると気づいた。もっと早く読書と出会っていれば、と後悔していると書かれていました。
 向井さんが刑務所宛てに本を送ると感想が返ってくる。70冊以上送り、返事は50通にのぼるとか。読書で人がそう簡単に変われるかどうか、それでも考えながら本を読み、贖罪につなげてほしい。 深く練られた感想を読めるのが楽しい、という向井さんの気持ちがよく分かります。
 シャンソンには愛する人のために罪を犯し捕らえられる歌や貴方のためなら何でもするという歌がたくさんあります。歌の中では罪人になることがあっても普通の生活では警察につかまるほどのことはしないで済んでいる。それはとても幸運なこと。けれど絶対に罪を犯さないと断言できるかどうか。罪におとしいれられることもあるのですから。
 この新聞の受刑者は子どもの頃からあたたかい愛にふれていれば道をあやまることはなかっただろうと思いました。 
 
 2024年10月26日(土)

 歌のレッスンをしていますと必ずアーモンが入ってきて歌を聴いています。音楽が好きな猫のようです。
 ランチコンサートまで1ヶ月余となり、プログラムの詰めをしているところです。ディスコに行ったことがない私でも思わず身体が動いてしまう音楽があり、そういうのが入っていると楽しいかな、と思ったり。けれど自分らしくない歌を無理に入れない方がいいと 思ったり。
 歌とその時の自分の心境が重なります練習中にふと涙が出ることがあります。38年前に近鉄小劇場でリサイタルを行った時、ダウンタウンの演出をされていた湊裕美子さんが演出をしてくださいました。私はまだリサイタル2回目、駆け出しもいいところです。リハーサルの時、ある悲しいシャンソンを歌いましたら湊さんが大声で「泣け‼」と叫ばれ驚きました。芝居の方はこうやって演出されるんだなと思いながらもあまりの勢いに促されせつなさがこみあげてきたのです。つまり本気で歌えということなのですね。それ以来、40年近く月日が経っていますのにその歌になりますと愛する人を思う主人公になっているのです。ランチコンサートで歌います。
  スピーカーの前で歌を聴いているアーモン。
  
 2024年10月25日(金)
 
 2017年(平成29)今から7年前、ラジオ大阪で『奥田真祐美のシャンソンと共に』という番組のパーソナリティーを1年間務めました。30分番組で週1回、テーマソングは『クスノキのうた』。女性アナウンサーが相方で進行役をしてくれました。
内容は私に任せてもらえましたので、まず1年間53回のシノプシスを作りました。シノプシスとは番組の要約、あらすじといった意味です。放送日の季節などに合わせて話題を考え、自己紹介はもちろんのこと、二度とない機会に自分の思いを伝えたい。そして私のCDの曲を全部流すことにしました。私の歌だけでなく、その歌の原曲も聴いていただくことにしました。私のオリジナル曲以外は原曲があるのでそれをさがすのは一苦労でした。どうしても原曲が見つからないものありました。 原曲のレコードは古すぎて音質の悪いのもありました。
 当初、毎回ゲストをお招きしたいと考えリストを作っていましたが、そうしますと時間がなくなり、53回中ゲストに来ていただいたのは1回だけで小野有五さん。小野さんは地理学者で北大の名誉教授。ジョン・レノン夫人オノヨウコのいとこさん。他に電話で仙台のさとう宗幸さん。大まかな台本は私が作りました。4冊のエッセイ集にしゃべりたいことはほとんど書いていますので53回では足りないくらいでした。ただ私のしゃべりはプロのアナウンサーのように訓練をしていませんから、放送日にラジオから流れる自分の声を聴くのは少し気恥ずかしいものでした。
 また追々エピソードをお話させてください。 
  
 2024年10月24日(木)

 朝のうちに衆議院選挙の期日前投票へ行きました。区役所にはいつもより多くの人が来ており、関心の深さを感じました。女性にはじめて参政権が認められたのは昭和21年、78年前です。先人のお蔭。ですから選挙権のある者は義務としてでなく権利として選挙に行きたい。棄権などもったいないことと思います。

 今日はNHKのシャンソン教室の日。体験レッスンに2人来られ「楽しかった」と言われたのは嬉しいことでした。 教室は阪急デパートの隣りの新しいビルで広々としています。何よりエレベーターが広すぎるくらい広い。 ベテランのピアニストの伴奏でレッスンします。歌う人に合わせてキィを上げたり下げたり自由自在。1時間半のレッスンで初めての歌でも歌えるようになるよう心がけています。譜面が読める読めないは関係なく、変な癖をつけず歌えばその方の個性が出るもの。自分の思いを歌に託して表現する歓びを味わってもらいたいと思っています。 歌には恋の詩が多く今日レッスンした歌もさまざまな愛の歌でした。
 
 2024年10月23日(水)
 
 18日のひとことにラジオ体操の写真を載せました。長居公園のラジオ体操の像をよく見ましたら私の腕の曲げ方が間違っていることに気づきました。間違いは正さなければと、出来る限り像に近い体勢をとってみました。すると簡単そうにみえてとてもきつい運動です。今まで手抜きをせず一つ一つの動作をきちんとしていたつもりでしたが、もっと身体の隅々にまで神経を行き渡らせなければならない。そのようなことが身の回りにはいっぱいあるのですね。
 
 
 2024年10月22日(火)

 最近、近所にはマンションが次々と建設されています。かなり狭い土地でもそれなりにちゃんと集合住宅や一軒家が建つので興味深い光景です。家が建ってなければモータープールです。モータープールはやがてマンションになります。
 田舎では過疎化の問題がおきていますのに都会はぎゅうぎゅう詰めという感じです。私の家から幼稚園や小学校へ行く道に戦後の大変な時に建ったであろう木造のアパートがありました。やがてシャープの独身寮となり、厨房のわき道を通りますと独特の料理の匂いが流れていました。
 シャープは1912年(大正元年)に早川徳次が創業した会社で、東京から大阪で再起をかけたのは1924年。大阪は私の通った小学校の隣りの地です。
 シャープペンシルを考案したのは早川徳次。また特記すべきは福祉に力を注ぎ、1954年に育徳園保育所を開設しました。子どもの頃、私の家の隣りの隣りに育徳園があり、子どもの声や音楽が聞こえていました。育徳園は移転し、シャープ本社も移転し、残っていた独身寮もなくなり15階建ての分譲マンションに変わろうとしています。
 写真は現在建設中の状況です。
 独身寮の小さな空地に我が家の猫になる前のアーモンが座っている時もあったそうです。近所の猫友が教えてくれました。
 マンションが林立しているこの辺り、大昔は猿山とよばれていましたのに、昔の面影はありません。歴史を知っている人はだんだんいなくなってきました。
  
  
 2024年10月21日(月)

 年下の友人が感動したというテレビ番組を教えてくれたので映画に行くのを止めて今日はそれを見ることにしました。NHKEテレ『こころの時代~宗教・人生』~いのちのドアをひらく 永原郁子さん助産師さんの話です。 7年前に設立の「小さないのちのドア」は永原さんをはじめ看護師、保健師といった専門分野の人が24時間ドアを開けて、子どもが出来たことを親にも誰にも言えず悩みぬいている女性を受け入れているところです。いのちを一緒に守りましょうと言って。
 永原さん自身、絶望と孤立を経験したとき教会の門をたたき、聖書を通して「そのままでいいから私の元にきなさい」という声に立ち直ることが出来たとか。番組で感動した言葉がいくつかあります。人間は自分の存在を一人でもいいから認められたいもの、自分の存在を認めてもらえなかった人は心を閉ざした人が多い。求めても得られなかったあたたかさ。自分は誰からも愛されてこなかったという人に、あなたのことが大切だと言って寄り添う大切さ。永原さんは毎日「今日の私のいのちをお使いください」と祈る。「すると神さまは私に使命を与えて下さる」。深い言葉がこころに残りました。
 
  
 2024年10月20日(日)
 
 案内を頂いていたので母校の小学校の運動会に行きました。思えば大人になってから子どもと接する機会がほとんどない人生でした。姪二人はつくばで育ち今もつくばで生活しており、姪の子どもとも会う機会がありません。今日は9時から始まる開会式から出席し 児童の入場を見ました。1年生にとれば初めての運動会ですから親御さんはさぞかしおよろこびのことと。リレーもダンスも一生懸命で可愛い。それが6年生ともなるとすっかり大人の雰囲気で6年間でこうも成長するのかと感慨深いものがありました。 私の小学生の頃と違うのは、まず校舎が木造だったのが鉄筋になり、周りに桜の木や池やシャープの会社があったのがなくなり昔の面影はなくなっています。どれもさびしい。8クラスあったのが今は3クラス。
障害を持った児童が数人いましたが、ちゃんとサポートしていて走れなくてもダンスが出来なくても参加している姿に胸が熱くなりました。
 昔との違いをもう一つ。入場退場の音楽、ダンス音楽どれもこれもアップテンポでメロディよりリズム。テレビに出てくるタレントのような振りつけで身体を動かすので、今の子どもはリズム感がいいはずだと思いました。このような音楽を選ぶのは先生だろうから先生も若いんだな、と痛感。 今日も時代の流れを思う1日でした。
  
 2024年10月19日(土)

 友人が元衆議院議員の石井郁子さんをご案内して拙宅へ来られました。70歳で政界を引退され15年になる今もお元気でご自分の人生を有意義に過ごしておられます。2月にNHKEテレ『こころの時代~宗教・人生』に私の従妹の夫、富和清隆さんが出演しましたので、その録画を見に来られました。番組のタイトルは~今、ともに在ることを 大仏様のお膝元にて~。東大寺福祉事業団理事長で小児科医の富和清隆さんは障害のある子どもと家族のためにゆったり過ごせる時間と場をつくりたいと平成22年に「奈良親子レスパイトハウス」を作りました。医療は生命を守るだけでなく、生きていて良かったと思えるサポートも必要だと。
 録画を見ている最中に猫のアーモンが入ってきました。石井さん「あら、いいお顔しているわね。私も猫飼ってたのよ」と言われ、猫派と分かりました。
 11月2日に尼崎アルカイックホールミニで行われる『時の行路』上映会に行かれることになりそれも嬉しいことでした。前にもご紹介しましたが、しんぶん赤旗に掲載の小説の挿絵を担当された中西繁さんが小説の映画化を提案されたことで実現となった映画です。きっといい映画だと思います。
 
  
 2024年10月18日(金)

 自宅から歩いて15分のところにある長居公園は1928年(昭和3年)に臨南寺公園として公園計画が立てられました。臨南寺という禅宗のお寺があり、子どもの頃は原っぱの向こうに臨南寺の大きな木が見えたものでした。 昭和9年に臨南寺公園から長居公園に改称。昭和15年に広い農地を大阪市が買収し、昭和19年に開園されました。昭和23年には競馬場、競輪場ができ、昭和40年あたりから本格的にだんだんと整備されてきました。大きな陸上競技場、テニスコート、プール、相撲場、博物館、植物園、身体障害者スポーツセンタなどなど。
 陸上競技場では若いグループのコンサートが開かれ、その時は大変な騒ぎです。 
 さて、私は毎朝6時半からのラジオ体操に行っており、一体どんなところでしているのか、今朝の写真を載せることにいたしま.す。 第1と第2体操が終わりますとみんな空に向かって大きな声で「アー」とロングトーンで発声します。長居公園の雄叫びとも言います。
 
 左から①公園へ行くまでの道 ②公園内陸上競技場が左側に見えます。③それぞれ好きな場所で体操 ④音楽が流れるスピーカーとラジオ体操の像 ⑤体操する私                                 
  
 
 2024年10月17日(木)

 鉢植えのかりんの木を地植えにしましたら大きくなり、毎年見事な黄色の実をつけました。ある年は大きな段ボール箱いっぱい収穫し、喉にいいカリンジュースを作る方にもらってもらいました。黄色に色づきますととても良い香りがただよい玄関に置いて楽しみました。今年は夏頃から小さい実がコロコロと落ちて今では木にほとんどなくなりました。猛暑のせいではないかと思います。カリンの実に限らず、香りのよい花と言えば、ジンジャーの白い花、エンゼルトランペット、夜来香次いで沈丁花、キンモクセイ。 キンモクセイ以外庭にあった香りの素晴らしい花はなくなってしまいさびしいことです。
 
  
 落ちたカリンの実をしばらく捨てずにおくことにしました。
 
 
 2024年10月16日(水)

 『リラの門』というDVDを見ました。パソコンで映画を見るのは初めて。モノクロ映画は久しぶり。映画の予備知識もなく、全く白紙の状態でした。先日、画家の中西繁さんがブラッサンスのCDをお持ちだという話をブログに書きましたら、中西さんがブラッサンスのCDと『リラの門』のDVDを送って下さったのでした。
 ブラッサンスの歌をまともに聴いたことがありませんのに、容貌と相俟ってとっつきにくい気がしていました。 ところが何と私のCDアルバム『小さなひなげしのように』の中に1曲ブラッサンスの作品を歌い収録しておりました。詩はルイ・アラゴン曲がブラッサンスの『幸せな愛などない』というシャンソンです。かなり難しい歌でしたが収録後1回リサイタルで歌っていました。もう1曲『貴方とランデブー』もレパートリーにありますのでブラッサンスは2曲です。
 映画の話に戻ります。映画の解説を読んだところ、パリの下町を舞台にした人情劇とあります。1957年、今から67年前のフランス映画。モノクロは映像にメリハリがあって深味が感じられました。ブラッサンスのギターの弾き語りがパリの下町の雰囲気と溶け合っていました。人情喜劇というのは軽い内容ではないのですね。心に残る映画でした。
 この映画に黒白の猫が出てきました。ブラッサンスの飼い猫です。抱き方がとてもいい。芝居として抱いたのではない、猫が好きな人だと思いました。少し無骨なブラッサンスが優しい人に見えてきました。

我が家に猫アーモンがくる7年半前、母が拾ったナナという黒白の猫が19年生きて老衰で亡くなり、クスノキの根元に葬ってやりました。
 今日は『リラの門』に登場した黒白の猫に因んでナナの写真を載せることにいたします。
 
 2024年10月15日(火)

 写真挿入をスムーズにするためには練習が必要ですので、今日は何枚か載せることにいたします。私のスマホのギャラリーはほとんど猫アーモンの写真です。
庭にいた頃のアーモンを載せるのは少し可哀そうな気がして、というよりその頃を思い出すと辛くなるので家族になってからの姿を載せることにいたします。
 アーモンは私がパソコンを開けるとすぐやってきてパソコンの上に乗ったり、ゴロゴロ喉を鳴らしながら顔の前に来るのでなかなか作業が出来ません。ようやく横で寝てくれたので作業開始です。
 
  
 2024年10月14日(月)

 梅田に出る用事があり久しぶりに新阪急ホテルを通りました。2025年1月4日の宿泊利用をもって閉館するとのこと。地下の飲食店もほとんどが閉店、ロビーの喫茶ルームもなくなっていてさびしい光景でした。地下鉄御堂筋線梅田からすぐのホテルでとても便利でした。ホテルの宴会場で長い間ディナーショーを行っていましたので、活気があったその頃を思い、時代の変化を感じさせられました。2019年2月にディナーショーを開催したときすでにホテル側の方々はマスクをしていました。コロナが収束したら再びディナーショーをと考えておりましたが、お客様の高齢化で夜は出たくないという方がほとんど。それで昨年からランチコンサートに替えました。 新阪急ホテル直営の「ルシェル」というフレンチレストランでも長い間7月の巴里祭と12月のクリスマスにディナーショーを行っていました。 お料理がとっても美味しくて大評判でした。いつも両親を招待し、二人が楽しみにしているのは嬉しいことでした。
 何でも終わりには寂寥感が伴いますが新しい始りでもあり、すっきりして気持ちが変わり、キリをつけるというのはすべてのことではなく時にはいいものですね。
 
 2024年10月13日(日)

 私の母校、大阪市立長池小学校から運動会の案内が届きました。毎年入学式、卒業式になりますと来賓として招待して下さいます。なぜかと申しますと、平成7年に作った『クスノキのうた』が少しずつ地元で反響を呼び、阿倍野郷土史家の猿田博さんの耳にも入り、それがご縁で長池小学校で行われた田辺大根まつりに招かれました。そして当時の須和秀夫校長先生から「小学校の生徒にシャンソンを聴かせてやってください」と声をかけていただき平成16年に実現したのでした。音響も舞台設営もすべてボランティア、小学1年生から6年生まで全校生徒、父母や近隣の方々も来てくださいました。講堂に掛けられた看板には「ようこそ先輩奧田真祐美さん ふれあいコンサート」の文字。終演後、校長先生は全生徒が書いてくれた感想文を送ってくださいました。それ以来20年、校長先生が代わられても来賓席を用意していただき、卒業した学校に招いてもらえることはありがたいことと思っております。
 
 2024年10月12日(土)

 今日は私の第2の誕生日です。10月12日は初めてシャンソンを習いに行った日、19歳でした。その年の8月に「シャンソンの道を目指そう」と心に秘め、先生をさがしレッスン日が決まったのは約2ヶ月後でした。まだ学生の身、厳しい学校ですからクラシック音楽ならまだしもポピュラー音楽を習いに行くとは言えません。親にも言えません。レッスン代はそれまで習っていたフルートをやめてその分を回しました。
 初めて乗る目蒲線の大岡山を降りて電話で教えられた道を歩き先生の家にたどりつきました。方向音痴の私がよく間違えずに行けたものでした。電話に出られたのは女性だったので堀内環先生は女性だと思ってベルを押しましたら男の先生が出てこられました。幸い自由学園をご存じで、オペラ歌手の坂本博士さんの代稽古で男子部へ一度教えに行ったことがあるとのこと。とにかく何も分からない知らないおしゃれなどまるで縁遠い普通の学生でしたので、先生は単なるお稽古ごととして習いに来たのだろうと思われたはずです。
 「ちょっと声を聞かせてください」とピアノをひかれ、ドレミだったか、あああだったか声を出し、それからジュリエット・グレコの『ロマンス』をレッスンすることになりました。 それまで音楽の時間でイタリアンソングの恋の歌を習っても原語でしたから恋の歌とも知らず歌っていた私は日本語で愛や恋という言葉が出て来るシャンソンに出会い別世界に来たような気持ちでした。
 レッスン日初日に「これこそ私が求めていたものだ」と感じてから今日まで長い長い年月でした。まだまだ旅の途中です。 10月12日は私の「シャンソンの日」と名づけています。

 この写真は初めて手にしたシャンソンの楽譜です。   
 
2024年10月11日(金)

 ひとことに写真を入れるのに何時間もかかりました。簡単に載せられるのもあるようですが、私のホームページビルダーではかなり手順を踏まなくてはなりません。慣れるまでちょっと一苦労ですが、少しずつ覚えていきたいと思います。
 
 私の家ではずっと猫を飼っていましたので猫のいない生活は何か片手落ちという感じでした。幸い2年前に縁あって庭で出会った猫を家族にいたしました。友人が言うには「犬や猫を飼いたいと思うけれど、死ぬと可哀そうだから、辛いから飼わない」。そのような言葉をよく耳にします。私にはその気持ちがよく分からないのです。生命あるものは必ず死ぬ。動物だけでなく花も枯れる。ですから悲惨な死や突然の事故で生命を落とすのはとても悲しいことですが、寿命がくれば受け入れるしかないと思っています。人間が先に亡くなり犬や猫が後に残るのは大変なことですのでそれは考えて飼う必要がありますが、動物を看取ってやれれば人も動物も幸せだと思う。死ぬのを見るのが辛いから飼わないというのは、心優しいのと少し違う気がいたします。「生きものはいつかは亡くなるのだから最後まで大事にしてやれば充分よ」と言いたくて仕方ありません。
 
  
 2024年10月10日(木)

   自分の手で植えた木が成長するのは嬉しいもの。 2021年に家の北東、つまり鬼門の位置に木を植えたいと思いました。鬼門に植えるのはヒイラギか赤い実のなる南天がいいとのことで近所の植木店で一種類、1本だけあった小さなおかめ南天を買ってきました。この種は赤い実もならず大きくもならない南天だと思っておりましたが、思いのほか美しい赤い実をつけ丈も大きくなりました。
 裏鬼門あたりには昔からのクスノキがあり、クスノキの精霊が守ってくれていると実感しております。
 
  私の父は次男で分家。昔は家督相続で長男の権威が大でしたから、父は家を継ぐとか先祖のお墓を守るといった権利も責任も義務もありませんでした。母は5人きょうだいの末っ子。今にして思えば難しい立場だったろうな、と思います。はっきりした責任がある方が生きやすい。我が家には慣習に縛られない気楽さと威圧感が入り混じっていました。
 父が73歳、母が70歳の時に家を建て替えたのですが、その時父はようやく自分に自信が持てたのではないか、自由になれたのではないか、と思います。

 家を建て替えた時、庭には母が年中お花を咲かせていました。いわゆるガーデニングというようなハイカラなものでなく、イングリッシュガーデンでもなく、母流の花の庭でした。私が引き継いでからの庭は母の時代とまったく変わってしまい、木 が主になりました。庭は自分の手で管理できるくらいにしておかなくてはいけないとか。南天は手入れが出来ますが、このクスノキ私の手では何も出来ず、人間を見守ってくれている存在です。

  
  
 2024年10月9日(水)

 関西のクラス会が梅田で行われました。母校の自由学園には全国から生徒が来ておりましたので、各地方毎に卒業生会があります。今日はクラス会ですので計7名、欠席数名。卒業して何十年にもなりますが、話題は学校でいかによく働いたか、寒くても我慢して生活していたことや、寄宿舎では洗濯機がなく洗濯板を使ってゴシゴシ洗っていたことや言い出せばきりがありません。
 卒業してからのいろいろな苦労や困難は学園時代の大変さを思えば耐えられる、といった感じです。今日の出席7名中5名は結婚し子どもを生み育てた方々。口を揃えて言うのです。 12歳なんてまだ子ども、そんな子どもを新幹線も携帯もない時代に東京へ出した親はえらい。私なら出せない、と。
 創立100余年を経てこの4月から男女共学になったことも皆の驚きでした。「私たちは男子部の人と口をきいてはいけないと言われていたのにね!」「あれはなんだったのだろう」 と思ったりしますが、 時代は変わり物事は変わるのですね。 移りゆく人生でも、私は「今がいい!」と思って生きたいです。
 
  
 2024年10月8日(火)

 いま私が書いているこのブログはエッセイではないので文体がエッセイと違っていていいのだということを。
 いまさらながら、お話するつもりで書いてまいりたいと思います。

 雨戸を通して雨の音が聞こえます。とてもいい音。そうそう、私は『雨』という歌を作り、~雨の音が好きです。雨に濡れた緑が好きです~で始まる詩を書いたのでした。
 さて、今日は何をお話いたしましょう。
 シャンソン教室今日のレッスンでは、ゲンズブールの『枯葉に寄せて』とモーリス・ファノンの作品『スカーフ』をレッスンしました。まず原曲を聞いてもらい、私の持ち歌であれば参考までに私が歌い、曲の感じを知ってもらいます。
 『スカーフ』はファノンが別れた妻ピア・コロンボに贈った楽曲だといいます。
愛する人からもらったスカーフ、それは二人だけの絹の思い出。今も首に巻くのは寒いからじゃない、貴方を思い出すため、といった日本語歌詞です。静かで美しいメロディとせつない歌詞とが相俟って涙ぐみそうになるシャンソンです。
 同い歳の一人の生徒が言いました。「先生はせつない歌が合ってる」と。以前「先生は明るく可愛い歌が合っている」と言った人もいました。 私自身はドラマティックな激しい歌も、明るい歌も軽やかな歌も、しっとりした歌も、どこか自分の琴線にふれる歌はどれも好き。
 歌う時は歌の主人公になって歌うようにと言いますが、努力して主人公になろうと作らなくても、その人の声と表現力は主人公と本人を一体化させ、歌にはその人の人間性がもろに出るものだと確信しています。
 
 
 2024年10月7日(月)

 スマホでこの「真祐美からひとこと」を読んで下さる方は、指をたえず左右上下に動かさなくてはならず読みずらいことと思います。パソコンあるいはタブレットですと疲れないのですが、スマホの皆さまどうぞ目をおいとい下さいませ。

 人には何時間でも話題が尽きない人と話が続かない人がいます。年下のある女性の友人は話題が尽きない方。なぜだろうと考えてみましたら、価値観、考え方に共通性があるのです。性格が違っても趣味が違っても、話が合う合わないには関係ないようです。 今日も久しぶりにおしゃべりしました。自民党総裁選挙の話、華道茶道の世界の話、媚びを売る女の話、遠藤周作の本の話、神道の話など諸々。 会話ができる人というのは一方的にしゃべるのではなく、相手の言うこともよく聞くことだと痛感します。 年下の友人は私の何気ない話にもちゃんと耳を傾けてくれる。
 無口な人でも本当は話がしたいのです。聞いてもらいたいのです。けれど大勢で集まりますと声の大きい人や話術の巧みな人が優位に立ち、慎み深い人や声の小さな人、しゃべりの下手な人は割り込んでしゃべることができないのです。おとなしい人にも話すチャンスがありますと、しっかりと自分の意見を言われることが多い。
 私は即座に理路整然と話すことが苦手で、一番いいのは、時間をかけて頭を整理し言葉を選んで書くことですが、ブログは文章を推敲しておりませんものでどうぞご了承くださいませ。
 
 2024年10月6日(日)

 今朝は真夏と同じTシャツで出かけましたら少し肌寒く感じました。扇風機もしまいました。掛布団も厚めに替えました。猫のアーモンはいつも仰向けになって脚を広げて寝ていましたのに丸くなって寝るようになりました。ようやく猛暑が去った感じです。

 朝刊のテレビ版を見ていましたらNHKEテレ『こころの時代~心とは何か~』という文字が目に止まりました。物質である脳からなぜ心が発生するのか、とても興味深い課題でした。脳外科の浅野孝雄さんと僧侶・仏学者の佐久間秀範さんのお話は私の頭では一度聞いただけでは分からない専門的な内容でした。
 実体の存在論とプロセスの存在論があり、それは相反するもの。我々は実体を求めるけれど実体というのはなくすべて変化している。という話から仏陀の教えに繋がっていくのですが、脳から心が生まれる秘密を知るのはとても難しく、仏教は哲学だと感じた次第。なぜ人間は苦しみ悩み憂い悲しむのか、についてもふれられましたが私の理解不足です。 心とは何かを考えられただけでもよかった。
 
 2024年10月5日(土)

 「ジョルジュ・ブラッサンスのCDを持っている」と言われたのは洋画家の中西繁さん。シャンソン歌手でもブラッサンスのCDを持っている人は限られていると思います。ブラッサンスはシンガーソングライターで詩人。私の手持ちのCDでブラッサンスを探しましたが2枚組CDアルバムの中に4曲収録されているだけでした。
 前衛短歌の塚本邦雄氏はシャンソンの愛好家で、『薔薇色のゴリラ』『虹彩と蝸牛殻』という本を出しています。評論家だけあってシャンソンについて実に詳しく、歌手についても、詩についても、フランス語の発音についてもつっこんで書いている。それはそれで感服しますが、自分の好きなもの以外は手厳しく掃いて捨てるのには読んでいて少し痛みを感じます。塚本邦夫氏はブラッサンスについても評論を書いており、塚本氏のお気に入りの歌手だというのが分かります。
 ブラッサンスはルネ・クレール監督の映画「リラの門」に出演したり『雨傘』『墓堀り人夫』によってACCディスク大賞を受賞したり、数々の業績をあげながら、大衆受けのするシャンソン歌手ではありませんでした。永田文夫氏の言葉を借りればマスコミに背を向けて独自の道を歩いた偉人。
 日本で発売されているレコードも少なく、風刺的な歌詞や反体制的な歌詞が多く、ブラッサンスを歌うのはハードルが高い。唯一私が歌えるのは『貴方とランデブー』という彼の初期の作品だけです。今度のランチコンサートの候補曲に入れようと考えています。
 『貴方とランデブー』のブラッサンスの原曲を聞きましたら艶やかなバリトンによる軽やかなシャンソンでした。
 余談ですが、何十年も前に京都で医師会によるイヴェントがあり、塚本邦雄氏と私がゲストによばれたことがあります。主催者は塚本氏が大の日本人が歌うシャンソンがお嫌いだということを知らなかったのだと思います。救いは塚本氏の講演の後に私が歌う順番だったこと。おそらくご自分の出番が終わられたらすぐに帰られたことと思います。私は怖いもの知らずに精一杯日本語でシャンソンを歌っていました。
 
  
 2024年10月4日(金) 

 今から60年前の1964年(昭和39)10月1日に東海道新幹線が開通したのですね。私は東京の学校の在学中でした。それまで春休み、夏休み、冬休みしか実家に帰れず、一端学校が始まったら何か月も親に会えないと覚悟していました。夢の超特急が出来た時、学生の分際で高い交通費を親に出させるなんて出来ないと思っていました。けれど翌年のゴールデンウイークにはひかりに乗って大阪へ帰ったことを覚えています。たった2日ほど家にいられるだけでしたが。それでも帰りたかった。きっと親も会いたかったのですね。
 入学で大阪から東京へ行くときに乗ったのは天王寺から出ていた「大和」という夜行列車でした。その後も座ったまま何時間もかかる夜行列車で東京駅に着き、そこから池袋に行き池袋から西武池袋線でひばりヶ丘へ。長い道中でした。 
 しばらくしてからは「銀河」という寝台車でした。しんどくてもそれしかないので、それが当たり前の時代でした。いまや2時間半とは本当に凄いことです。これだけ時間が短縮されたのですから簡単に東京へ行けそうですが、銀巴里が閉店となって出演がなくなり、30年間続けた東京でのリサイタルを終わりにしてからは新幹線に乗る機会が減ってしまいました。そのうちに、などと思っていましたら『いつの間にか時は過ぎ』になってしまいますね。
 
 2024年10月3日(木)

 朝刊で作家の熊井明子さんが亡くなったことを知りました。ずっと前に『私の猫がいない日々』という本を読み、猫の本でこれほどあたたかい気持ちになったのは初めてでした。その後本屋で見つけては熊井さんの猫の本を買いました。本棚に並んでいる猫の本の中で『私の猫が……』がなぜか最も心に残っているのです。
今、ベラベラページをめくってみましたら内容はほとんど忘れていました。文章が印象的だったからというより、本から伝わる優しさが私の心にしみこんでいたのです。単に猫が可愛いという本ではなく深い洞察力で猫を見、人間を見ておられる。
 人には本当に親切で思いやりのある人でも「猫は嫌い」と言われますとちょっとさびしくなります。当然のことながら猫に関心のない人や猫の嫌いな人は我が家の可愛いアーモンを見ても目に入らないようです。
 先日バイオリニストの友人のお宅に伺いましたら飼い猫がすぐ私の膝に飛び乗ってきました。何か月も会っていませんのに覚えていたのか。猫が自分から膝に乗ってくれるのは何とも言えないよろこび。アーモンも目が合うとゴロゴロと言って膝に乗りに来る。幸せホルモンのオキシトシンが出るのが分かります。
 もう一度熊井明子さんの本を読み直そうと思いました。
 
2024年10月2日(水)

 9年前に見た映画『杉原千畝 スギハラチウネ』に感動した記憶があるので昨日のNHKスペシャル『祖父はユダヤ人を救った~ガザ攻撃と”命のビザ”』は関心がありました。リトアニア領事館の外交官だった千畝は1940年ナチスの迫害を受けたユダヤ人難民を助けた人。本国の外務省の命令に反し、独断でビザを発給し6000人の命を救ったのでした。命令に背いたことで退官させられますが、後に千畝の功績は認められました。けれど彼は自分の業績を誰にも言わず。目立ちたいといった気持ちは皆無の人でした。ただ「僕は当たり前のことをしただけ。どんな民族でも助ける」と言った言葉を子や孫は証言しています。そして自分が信じたことや正義を貫くこと、一度思ったことはやり遂げる、一度言ったことは必ず守る人だったと。 本当に驚きます。本国の命令を無視することは普通はできない。損得を考えてはまずできない。まして戦時中のこと。千畝の人道博愛の精神を第一と考えた勇気ある行為に敬服します。
 ところが今、孫のまどかさんの元に祖父の行いを批判する言葉が届くそうです。批判する人は自分は世の中のことを考え正しいことを言っていると思っているのですね。まどかさんがアウシュヴィッツに行き、84年前の祖父のビザで助かった人と助けられなかった人がいることを思う姿が心に残りました。
 
 2024年10月1日(火)

 今日の近鉄文化サロンのシャンソン教室でダリダの『18歳の彼』をレッスンしました。シャンソンに限らず歌は3分間のドラマ。愛の心象風景の歌もありますし、自然をモチーフにした歌、人生の歌、社会的な歌、様です。『18歳の彼』というのは36歳の女性が自分の歳の半分の青年に恋をした話。ダリダは現実にそのような恋をした経験があるそうです。1番の歌詞では、女性が年若い青年に軽く恋心をいだくことから始り、2番では青年の方が夢中になる。3番では女性はその青年を心から愛してしまうのですが、青年はさよならと言って去っウてしまう。女性はその時歳の開きを忘れていたことを気づかされるという涙が出そうなせつない物語。
 いつも歌うときはその歌の主人公になって歌うようアドバイスします。歌は実年齢と関係なく、また経験がなくても想像力と感性があればいろいろな歌の世界に生きることが出来る。それが歌の醍醐味だと思います。60代から80代の方が多く皆さま人生経験が豊かですので、キャリアを重ねるほど深味のある歌が歌える。
 人は相手が年上であろうと年下であろうと、自分が幾つであろうと恋する気持ちに変わりはないものだと歌いながら感じたことでした。
 
 2024年9月30日(月)

 明日から切手代が上がります。約40年いろいろな郵便物を送ってきました。多い時には1回に1,300通以上、年に数回、数人掛かりでの作業でした。チラシを作成し、手紙を書き、切手は出来るだけきれいな物を選び一枚一枚ぬらして貼っていました。別納のハンコをポンと押すのはしない方針でした。 今はラインでイヴェントの案内をされる方が多いとか。ペーパーレスの時代となって郵便を出す人が減り、それで切手代値上げになるのですね。
 最近では手書きのお便りをいただくことはまれになりました。私も手書きが苦手になり、宛名書き以外はパソコンを使ってしまいます。パソコンがなかった時に発行したエッセイ集の原稿は全部手書きでした。 机には重い広辞苑を置いて。今ではそんな大変なこと、考えられません。
 手紙と言えば12歳から20歳までの親との往復書簡が残っています。携帯電話はもちろんのこと、普通の電話もかけられなかった寄宿舎生活でしたから手紙だけが心の支えでした。数年間は一日一信と言って毎日家にハガキを書いて出していました。 よく手紙は残るから書かないという方がおられます。何かの時に証拠として残ると困るということでしょうか。私はそんな風に考えたことがないのでよく分かりません。
 この間までは郵便は早くて近くでしたら1日で着きました。今は3日ほどかかります。日数がかかり値上がりとなりますとますます郵便離れになってしまいます。
親しい人からラインなりメールをもらうと嬉しいものですが、このまま手紙を書かなくなったら何と味気ないことでしょう。
 
  
 2024年9月29日(日)

 かなり昔、父方の祖父の弟は大阪から北海道へ渡り、函館に居を構えました。大抵の親戚は近畿におり、遠くて東京あたりです。父は函館の叔父さんにやさしくしてもらったと言っていたのを覚えています。子どもの頃は親戚のことなど何も知らず、ごく近い親戚とのつき合いしかありませんでした。函館の親戚と会ったことがなくなぜ『真祐美通信』を送るようになったのかまるで覚えがないのですが、なにかきっかけがあったのだと思います。昨日のこと、函館の大叔父の孫のお嫁さんにあたる方から手紙が届きました。失礼なことにその方につながりを聞きそびれてしまいました。 手紙には「長きにわたり『真祐美通信』を送って頂きありがとうございます。何年分かの年会費を送らせていただきます」と書かれていて驚き、すぐにお礼の電話をいたしました。初めまして、でした。今までの通信は全部とってあるとのこと。ちゃんと読んで下さっていたんだ、と分かり本当に嬉しく思いました。時には「母は何年前に亡くなっているのでもう郵便物は送らないように」といった連絡が入ります。中には「母は亡くなったけれど、今後は娘の私が後援会に入る」と言ってくださる方もあり、嬉しいこと悲しいこといろいろです。
 『真祐美通信』もこの 『真祐美からひとこと』も皆さまのお役に立つものではありませんが、心の交流の一助になれば幸いです。
 
 2024年9月28日(土)

 団塊の世代より少し後でも越路吹雪の名前を知らない方はいない。シャンソンが好きと言われる方に話を伺うと「越路吹雪のファンでした」という返事が返ってくることが多いのです。今年は越路吹雪生誕100周年、あちこちでイヴェントが企画されているようです。シャンソンの女王と言われているのですが、越路吹雪の歌は越路吹雪の歌、彼女の世界。曲はシャンソンでも日本語の歌詞がつけばそれはもう日本の歌であり、その人の歌だと思うのです。
 越路吹雪はパリに行きエディットピアフのステージ見ます。そし感動と同時に打ちひしがれる。自分には何もないと。帰国後、新たな自分を見出し越路吹雪のスタイルを確立する。マネジャー兼訳詞家の岩谷時子さんや夫でピアニストの内藤法美の力強い後ろ盾があればこそ。彼女の歌では『愛の讃歌』『サントワマミー』『ラストダンスは私に』『ろくでなし』は特に有名ですが、その共通点は分かりやすい、ただ分かりやすいだけでなく 独特の歌唱力と、宝塚で養われた身のこなしと華やかな衣装によって人々を夢の中へ誘い込んだのです。
 私が銀巴里に出ていた頃楽屋で聴いた先輩歌手同士の会話。ライブハウスやイヴェントで歌いに行ったら酔客が、「そんな歌はもういい。ろくでなしを歌え」と言われるとか。 アダモの作ったシャンソンから離れ越路吹雪の『ろくでなし』が大衆の心をつかんだのですね。
 いっぱい恋をした越路吹雪は、恋のよろこびや苦しさをちくいち岩谷時子に語り、その女心を岩谷時子は作詞に表現したとか。
 
 今も日本のシャンソン歌手は各々自分のスタイルを模索し自己の歌を磨いていることと思いますが、越路吹雪のような男性にも女性にも愛される歌手は珍しいのでは。
 
 2024年9月27日(金)

 パソコンに向かっていますと猫のアーモンがゴロゴロと喉を鳴らしながらやってきて手の甲の上に乗ってきました。重いのなんのって。仕事が出来ませんので少しかわいそうでしたが下ろしました。今度は眠くてたまらず頭が回りません。時間だけが経っていきますので今日はもうこれで終わりにいたします。
  
 2024年9月26日(木)

 2008年といいますと今から16年前。福田みどりさんからお手紙を頂きました。福田みどりさんは司馬遼太郎の奧さま。お手紙とカードを合わせますと12通になります。なぜそのような方からお手紙を頂戴したかと言いますと、ある日本屋で『司馬さんは夢の中』という本が目にとまり単行本3冊を購入しました。面白くて一気に読み、福田みどりさんのお人柄に惹かれました。司馬さんを亡くされた悲しみがひしひしと伝わってきて感動したのです。そしてその後、東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行った時、私のシングルCD『千の風になって/理由もなく』にお手紙を添えて受付の方に「ご迷惑でなければ福田みどりさまに差し上げたいのですが」とお渡ししました。それから数日後、ご本人からのお礼状が届きびっくりしました。
それまで本やCDを進呈することがありましてもお礼状を頂くことはほとんどありませんでしたから。しかも、~ここまで書いたところで、電話が相次いで落ち着かなくなりましたので改めて明日また書きます。~ と書かれてて、数日後ちゃんと第2信が届きました。みどりさんのお手紙は形式的な文章ではないのです。あたたかく心のこもったものでした。私もお手本みたいな型どおりの手紙は好きではないので、言葉遣いに気を使いながら思いのままのお返事を書きました。お身体の具合がお悪くて実際にお目にかかることはありませんでした。今でしたらお会いしてお話したかった気持ちですが、当時は今より16歳も若い時、緊張して何をお話してよいか分からなかったと思います。
 『千の風になって/理由もなく』の歌が夫司馬遼太郎さんを思う福田みどりさんの心の慰めになれば、と思ったことでしたが、確かに受け止めて頂けて思いがけない思い出となりました。
 
 2024年9月25日(水)

 いろいろな考え方の人がいて面白いと思ったこと。シャンソン歌手の女友だちとブログについて話をいたしました。友達=「公開日記みたいなものでしょ。どんなことを書くの?」私=「思っていること考えていること、いろいろ書きたいことを書くの。友達=「誰が読むか分からないのに勇気あるわね。思っていることなら親しい人に話せばいいじゃない。不特定多数の人に言ってどうなるの」私=「どうもならないけれど、自分の思いや感じたことを伝えることは無意味ではないと思う」友達=「私なんか難しい話など避けて、お料理のことやお天気のことや当たり障りのないことしか書けないわ」私=「ただ流れにまかせて生きているだけじゃなく、自分の考えを持って人と話すことは大事だから、ブログの場で発言することにしているのよ」友達=「もし真祐美さんのファンが読んで意見の違いで離れることがあるかもしれない。」私=「そうね、あるかもしれない。人との争いは望まないし、人と仲良くしたいと思っているけれど」友達=「いいたいことを書くのは悪く言えば愚痴の掃き溜めじゃない(笑)」 
 いいえ、私はブログに愚痴を書いたことはないと思っています(笑)。
 
  
 2024年9月24日(火)

 一昨日見たテレビで一瞬立ち止まって考えてしまいました。黒柳徹子さんのコメント「演技がうまくなりたければうまい人とつき合え。下手な人とつき合うと下手になる 」歌手でも下手な歌を聴いていると駄目になる。うまい人の歌を聴くべき。素晴らしい音楽を聴き、素晴らしい絵を見、心豊かになる本を読み、それだけでなく感性を磨くことはとても大事だと思います。よい友だちを選べとも言われます。悪の道に引きずられるような人間とかかわるのはよくないのは分かり切ったこと。よい友人との出逢いは最高の幸せ。なぜ一瞬考えてしまったのかと言いますと、選ぶという言葉にどこか利害関係を感じてしまうのです。この人とつきあったら得だ、損だ、という基準を良いこととは思えない。ビジネスの世界は別でしょうけれど。
 何らかの機会に出会った人とだんだんと気持ちが通じ、かけがえのない友達になるなら分かるのですが。もし、明るく面白く、ポジティブな人とつきあう方がいいとなれば、暗く面白くなく、ネガティブに考えてしまう人はどうなるのでしょう。そのような人は誰からも声をかけてもらえないとしたら悲しすぎます。一人寂しそうにしている人がいれば声をかけてあげたい。
 世の中は人脈やコネで動いている、損得の世界だと感じるだけに、日頃から「損だ得だ」と思わないよう心がけたいのです。話がずれましたかしら。
 
 2024年9月23日(月)
 
 裏庭のドクダミが枯れてきましたので刈り取りました。猛暑が少しやわらいだのでそんな作業をする気になりました。その間も12月1日のランチコンサートの選曲を考えていました。
 ポピュラーな歌の間にシャンソンファンの方ならご存じの『街角のアヴェ・マリア』を候補に入れました。私のCDアルバム『愛をみつめて』に収録しています。
 『街角のアヴェ・マリア』はアラン・バリエール(1935年~)の1968年ごろの作品で、原題は『PETIT AVE POUR RAY』=『レイのための小さなアヴェ・マリア』。レイ・チャールズに捧げたられた歌です。『街角のアベ・マリア』の内容とは全く違います。 日本語の歌詞をつけた五十嵐顕男さんは数年前に亡くなっていますが、私のシャンソンの師匠と同じ門下で大先輩でした。なぜ五十嵐さんはこのような歌詞をつけたのか訊きたくて仕方ありませんが、もうそのすべはありません。
 私がまだ東京で暮らしていた時代、55年ほど前になります。シャンソンの発表会で、五十嵐さんはすでに自分で訳した『街角のアヴェ・マリア』を歌っていました。当時の私はその歌に関心がなく、どんな内容かも長い間知りませんでした。
  アヴェ・マリアとはラテン語で「こんにちわマリア」という意味で、カトリックでは聖母マリアを崇拝します。プロテスタントでは聖母マリアを尊敬はしますが、崇拝はしません。

 歌の大筋を言いますと、雪が舞うある日、水夫は街の女を求めて扉をたたく。街の女は街角のアヴェ・マリアである。
 孤独な水夫の冷えた身体を温め慰め癒してくれる街の女、街の女は人に心から愛されたことがない。愛する人に裏切られ傷ついた経験があるのか。好きでもない男にお金で身をまかせる虚しさ。神への信仰を持っているからこそ、チャペルの鐘の音が聞こえると耳をおおいたくなる。もし信仰がなければ鐘の音に動揺することもない。男は朝になると虚しさを抱えて波止場へ帰る。そういう物語です。
 歌詞の中に、街の女をさげすむのではなく、そのような人の中にも本当のまごころや優しさを持っている人がいることを感じるのです。と同時に人間は誰でも孤独。そして心からの愛を求めている。しかしどんなに愛し合っていてもすべて理解し合うことは出来ない虚しさをもっている。人は誰でも心に埋められない空間がある。富や名誉などで埋められない穴。それを埋められるのは真理(本当の神)しかない。と言った学校の先輩の言葉が胸に響きます。
 他の方は『街角のアヴェ・マリア』をどのように解釈して歌い、聴かれているのか分かりません。私が思うのは、まことの愛がなければ虚しいもの。恋愛に限らずいい加減な仕事、表面的なつき合い、小手先の器用さだけの生き方には虚しさが残ると。
 五十嵐さんとは数回門下生の発表会でご一緒しましたが、個人的なことは全く知らず、知らないうちにギリシャに行かれ、日本との芸術の橋渡しで活躍されていたそうです。そして知らないうちに病気で故人になられていました。
 
  
 2024年9月22日(日)

 昨夜は寝る時間が遅くなりましたが、目覚めるのはいつも通り4時、またひと眠りして5時の目覚まし時計で起床しました。ラジオ体操へ行く途中でポツポツと雨が。傘を持たずに歩き始めましたので大雨にならないことを願いつつ無事長居公園から帰宅いたしました。ところが昼前に買い物に出かけた時には帰る頃になってどしゃぶりの雨となり私はびしょ濡れになりましたが、しばらくぶりのたっぷりの雨に庭の木々は生き生きと満足気に見えました。夕方になってふと外に出ましたら冷気が肌にふれ秋の気配を感じました。

 『ただそれだけの人生でも』というシャンソンがあり、原詩はルイ・アラゴン、曲はジャン・フェラ、日本語詞は永田文夫。(日本での創唱奧田真祐美)
 1番の歌詞です。
~走り回る子犬を 空を飛ぶ小鳥を 庭で遊ぶ子どもをやさしく見守る 夕暮れの涼しさに ドアの開く音に リラの花の薫りに心が安らぐ ただそれだけで人生は
でもそれだけで素晴らしい~が頭に浮かびました。リラは春の花。シャンソンにはリラ(ライラック)がよく登場します。
 ルイ・アラゴンの詩の直訳をメロディにのせることは出来ませんので、この歌詞は永田文夫先生流の意訳です。

 夕暮れの涼しさに、というこの歌詞のひとことが実感となった今日の黄昏でした。
  
 2024年9月21日(土)

 今は秋のお彼岸の時期、檀家制度についてあらためて考えました。
 多くの家は仏教のなんらかの宗派に属している。中には神道やキリスト教、新興宗教の家もありますが。
 「あなたのお家は何宗ですか?」と尋ねましたら「浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、
禅宗、真言宗」などの返事が返ってきます。さらに、浄土宗なら浄土宗を信仰しているのかと問えば、はいと応える人はほとんどおりません。檀家制度と信仰は関係がないのです。なぜ日本中どの家も仏教徒になることを強いられたのかと言いますと、江戸時代、キリスト教を排除、弾圧の目的で作られた寺請制度(檀家制度)なのですね。キリスト教の神は一神教で、徳川の将軍より上ですから徳川はキリスト教徒が増えることをおそれた。檀家制度はキリスト教徒ではないことを監視し、人々を管理し、支配する制度でした。明治になって寺請制度は廃止されましたが、今でも檀家は存続しています。魂の問題である信仰心とは関係なく慣習として。いえ、私の思う信仰でなくても、心から仏さまに手を合わせておられるのかもしれません。江戸幕府がキリスト教を弾圧したことが影響しているのか、日本の土壌がキリスト教を受け入れられにくいのか、今の日本でキリスト教は1パーセントにも満たないのが実情です。
 江戸時代に無理やり押し付けられた制度が21世紀の今も続いていることは驚きですが、制度としていい面があるからでしょう。
 宗教はあくまでも個人の自由な信仰心の問題だと思っています。
  
 2024年9月20日(金)

 映画『シサム』を見ました。シサムとはアイヌ語で隣人。簡単に言えば映画の時代背景は江戸の初期、アイヌと交易している松前藩の藩士の兄弟の弟が主人公。殺された兄の仇討ちから話は始まります。子どもの頃に見た『コタンの口笛』という映画は印象的でしたが、それ以外アイヌについて知識がありませんでした。今回の映画は原住民アイヌの人々の平和な生活を脅かし権利を奪いとる和人の理不尽なやり方が描かれていました。傷を負った主人公は生命を助けてくれたアイヌの人々を松前藩から守ろうとするのです。その時アイヌの長は言います。「我々はただここにずっと住んできただけだ」と。原住民は侵略者から逃げたり闘ったりする意味がないのです。けれど今の世界では大事な生命をいとも簡単に捨てている。やればやり返す、殺し合うというなんと野蛮な行為を人間は平気でやるのでしょう!
 先日NHKEテレ『こころの時代』フランクルを見ていた時、フランクルの弟子でロゴセラビーの研究者が言った言葉が頭に浮かびました。本当の英雄とはやり返さないこと。
 
 2024年9月19日(木)

 母校自由学園の大先輩・陶芸家の坪井明日香さんは2022年8月に90歳で亡くなられました。私には面識がなかったのですが、なぜか2023年に京都で開かれたお別れ会に招待して頂きました。クラスメイトに尋ねても案内状など届いていないとのこと。それでふと思いましたのは、冊子『インフォルモ』の工芸作家を紹介するページに坪井明日香さんを推薦したことがありました。高齢になられていましたので出来るなら早く取材したいと思っておりましたが、実現に至りませんでした。おそらく『インフォルモ』の編集室が何らかの連絡を入れたのではないかと思います。お元気なうちにお話を訊きたかったと思いました。
 1953年21歳で陶芸家を志したという坪井さんですが、「女は穢れているから窯を焚くときは近づいてはいけない 」と言われたそうです。そのような時代、女流陶芸会を創設。自身の陶芸家としての活動と女性の陶芸家を育てる仕事に邁進して来られましたが、今や女性も男性もない時代。女流陶芸は坪井明日香さんのお別れ会をもって66年間の幕を下ろされました。
 誰かが敷いてくれた道を歩くのも苦しみが伴いますが、なにもない処に道を切り開くのは強固な意志がなければできない。一人で行う以上に人の助けを得る方が難しく厳しいことだと痛感しています。話はそれましたが、女性に歳を訊くのは失礼だという言葉こそ失礼だと感じていることから話が坪井明日香さんのことになりました。
 
   
 2024年9月18日(水)

 12月1日のランチコンサートで歌う曲目を毎日考えております。初めてお越し下さる方や私の歌を聴いたことがない方もおられますのでその辺りを考慮しながら、あれやこれやと。大舞台とは違い狭いレストラン、バックバンドもピアノとヴァイオリンのデュオですし。リサイタルというのは、学会発表のようなもので、きちんとテーマ(タイトル)を決め、新曲を入れ、人真似でない自分のスタイルを披露することが大事でした。そのような定義があるわけではないのですが、私はそう考えておりました。歌謡ショーや〇〇コンサートといった場合は自分のレパートリーを歌いつつも重く暗く難しい歌は遠慮しました。けれどお客さまの中には、せつなく悲しいシャンソンが好きな方もおられ、リクエストを頂きましたら喜んで暗い歌も入れることにしています。
 なぜシャンソンは暗いとか難しいというイメージがあるのか、と言いますと、シャンソンは人生の歌、人生は楽しいどころか、暗くさびしく悲しいことが多いから人はそのような歌を聴くと慰められ勇気づけられるのだと、今は無き銀巴里の社長(故)作本正五朗氏が言われたのを聴いたことがあります。
 
        
 2024年9月17日(火)

 中秋の名月、暗くなって庭に出、空を見上げました。ところがクスノキとブラシの木とトネリコで空が見えないのです。お月様が出ていたら木の間からでも見えるでしょうから曇っているのかもしれません。頂いた仙太郎のお饅頭を味わいながらお月さまのことを考えていました。
 私は冬の真夜中の1時50分に生まれましたので、ギラギラ照り付ける太陽より月の方が似合っているような気がいたします.

 思い出しました。30年ほど前、唐招提寺の観月会に行き、暗がりの境内を月灯りで歩いたことを。話声もなく静かな夜、一人一人が束の間の月との語らいを楽しんでいました。

 今どうしても名月を見たくなりまた庭に出ました。見えました!木の間から煌々と輝やくお月さま。なんと明るい、美しいことか。家に入ると思わずアーモン(猫)に言いました。「素晴らしいお月さまを見てきたよ」アーモンはゴロゴロと返事をしてくれました。
 太陽も月も同じに大事ですけれど、月を選ぶなら闇夜を照らす月でありたい。
 
  
 2024年9月16日(月)

 以前は9月15日が敬老の日でした。今は9月の第3月曜日になり、成人の日は1月の第2月曜日に。成人の日と敬老の日はそのままにして欲しかった。
 
 敬老の日、高齢者を敬う日、長寿を祝う日。
 私は時についてエッセイにも書いておりますし、コンサートなどでも話したことがありますので、また同じことを書いてしまいますが、おゆるしください。

 いつも女性に歳を訊くのは失礼だ、という言葉になにか釈然としないものを感じています。つまり女性は若い方がいい、と同意語のような気がいたします。年齢を訊くのがなぜ失礼なのでしょう。年齢を気にしたりごまかしたり、3つ4つ若く言ってみたりするのは、人間は、特に女性は若いことに価値があると自分の周りの人々が考えているからではないか。多くの人は「若い頃はよかった、若い頃に戻りたい、若いというのはいいですね」と言いますが、私はそうは思わないのです。
、奥田真祐美は幾つだろうと詮索する方がいますので、15年ほど前のディナーショーで、「私の年齢を聞きたくない方は挙手を願います」と申しました.。.年齢を隠す気はなく、女性は年を言わないのが普通ということに疑問を持っていたので。
 どなたも挙げない。それで私は正直に言いましたら後から、「聞きたくなかった」と言われ少々ショックでした。皆さんは私を若いと思っていたのにそんな年齢か、と思われたのでしょう。歌手はお客様を夢の世界へいざなうものだから現実的なことはベールに包んでおく方がいいと言われます。そうかもしれませんが、納得はしておりません。最近は女優や歌手でも歳を公表しています。シャンソン歌手で公表している人は少ない。有名な歌手やうんと高齢の歌手は公表しますが。
 
 時の積み重ねは尊いもの。1日だって無駄な日はない。かけがえのない時間を、ごまかしてないがしろにしたくない、と思います。一足飛びに今の自分があるわけではないのですから。
 一対一で親しく話したいと思った場合、年齢を隠したり偽っていたら本当の対話はできません。
 ある作家が言われていました。女性の作家で年齢を書いていない人がいる。するとこの人はどういう時代に生まれ育ったのか背景が分からないと小説の内容も理解しにくいものだと。
 
 社会では本当の年齢をいうと仕事に影響することが多々あり、それで言わないことがよくあります。年齢の先入観がネックになっているのですね。
 女性に年齢を訊くのは失礼だ、という考えが世の中からなくなりますように。
 
 ところでこんなえらそうなことを言う私の生年月日、知る人ぞ知るです。
    
 2024年9月15日(日)
 
 NHKEテレ朝5時からの『こころの時代』V・E・フランクルの話は今日が最終回。4月から月1回、6回シリーズ、とても関心がありましたので全部録画しました。
 どんな苦悩の中にあっても生きることには意味がある。というのはフランクルの軸になる言葉、今日は人生の中の出逢いについてでした。ユダヤ人の精神科医であるフランクルはアウシュヴィッツ収容所から生還し祖国へ帰った時に待ち受けていたのは、家族、妻の死。絶望の中にあったフランクルを友人たちが助けるわけですが、友人がさがしてくれた病院で出逢った女性と再婚し、その後の人生は精神療法医として世界的に活躍しました。二度目の妻エリーとの出逢いがなければロゴセラピーの研究も多くの本の執筆も講演活動も出来なかったのではないか。
 今日の録画を見ながら、フランクルは素晴らしい伴侶との出逢いがあり生まれ変われたけれど、そのような出逢いがない人間はどうすればいいのだろう、でもこんなことを思うのは本筋にそれたことですね、きっと。
 フランクルは苦悩こそ人間を高みへと引き上げる、人間を深くすると言っており、私にはそのひとことでも心の支えになるのを感じます。
 
 2024年9月14日(土)

 今日の真祐美からひとことも新聞記事を読んで思ったことです。
昨日の朝日新聞朝刊に~もっと街路樹のこと ①大阪~夜に切られたシンボルのケヤキ 「安全対策」で2万本伐採計画 市民ら批判
という記事がありました。このような問題を聴いたり見たりする度に心に痛みを感じます。大阪市内の公園のシンボルツリーとして多くの人から愛されてきたケヤキが、6月26日に人知れず切り倒され、重機で根元も堀り起されていたそうです。木を愛し大切に思っていた人にとって残念というだけでは済まない思いだったはずです。安全対策のためと大義名分をかかげられると反論が難しい。異なる考えの人とも対立するのではなく、相手に意見をよくきいて歩み寄ることが大事だとよく言われます。それはもっともだと思いますが、とても難しい。考えの相違は日常茶飯事で、価値観の相違が大きな問題につながるのだと思います。
 作家の高田宏さん(故人)は私の後援会2代目の会長を引き受けてくださった方ですが、『真祐美通信』に書いてくださった文章に次のようなひとことがありました。
  ~世の中には人間しか見ようとしない人と、人間のほかの生命にも目を向ける人とがいます。人間社会の喜怒哀楽にだけとらわれるのではなく、植物界にも動物界にも心を寄せる人がいます。~
 
 新聞記事によりますと、大阪市の公園、街路樹を合わせ。2018年~2024年度に約19,000本を伐採する計画。しかし、伐採の基準があいまいだとか。

 人の心を潤す木、人の心を豊かにしてくれる木を無慈悲に切らないで欲しいと願う価値観を同じくする人々と声を大にしたい。
  
 
 2024年9月13日(金)

 今朝の新聞でペルーの元大統領アルベルト・フジモリ氏が亡くなったことを知りました。フジモリ氏と言えば1996年12月17日に起きた日本大使公邸が左翼ゲリラに占拠された事件を思い出します。その時の大使は青木盛久氏。人質事件での出来事です。ペルーのラジオ局が日本政府の協力の元に、人質支援番組を毎日午後4時45分から5時までの15分だけ放送することになった。その番組に入っていたのはラジオ第1放送と人質のリクエストによる日本の歌でした。その時青木大使のリクエストされたのが私の歌う『芭蕉布』だったと後から知りました。
 その頃、リサイタル前に新聞記者の取材を受けた時、「奥田真祐美さんの『芭蕉布』がペルーの事件の時に何回かリクエストで放送されてますね」と言われ、そんなことまでデータに残っているのか、と驚いたことがありました。 
 レコーディングを初めて体験したのがシングルCD『芭蕉布』でした。当時は沖縄へ行ったことがなく、想像で歌うだけでしたが、今思えばレコーディングの前に沖縄へ行き、芭蕉布の里を訪ねるべきだったと悔やまれます。
 人質事件後しばらくしたある日、たまたまラジオから『芭蕉布』が耳に入り、しかも私の声でしたのでびっくりしました。それは無事日本に帰国し、ラジオ放送に青木盛久氏がゲスト出演されていた番組でした。その時の青木氏の話です。、
「100日ばかりの人質生活は恐怖だけでなく日常生活に近いかなり退屈な日々だった。そんな中で1日15分だけ流される日本の放送、音楽は心を癒し、慰め、力づけられるものだった」。
 私のCD『芭蕉布』がどんなルートでペルーに渡ったの分かりませんが、思いもしなかったこと、少しでもお役に立てたことを嬉しく思いました。
 そのようなわけでフジモリ氏の逝去でペルーと『芭蕉布』との繋がりを思い出しております。
 
 2024年9月12日(木)

 4月に画家中西繁さんが開設されている伊豆の国アートヴィレッジを訪問した折、『時の行路』という映画の話を伺いました。しんぶん赤旗に連載の小説『時の行路』(著者田島一)に挿絵を担当されていたのが中西繁さん。連載が終わった2011年に中西さんが田島さんに言われた、「映画にしてはどうか」というひとことから話は始り、それから8年の歳月を経て生まれた映画『時の行路』です。監督は神山征二郎で撮影は伊豆のある三島で行われたとのこと。2020年の公開と同時に世の中はコロナ、そのため上映は遅れたそうです。
 チラシに書かれている文章を載せさせてもらいます。
 労働者の人権とは何か、 そして人間の尊厳とは 
 ある派遣労働者一家の闘いと希望の物語。
 
 出演は石黒賢、中山忍ほか。
 娯楽映画と異なり社会問題を扱う硬派の映画ですから映画館は限られており、関西では11月2日(土)尼崎のアルカイックホール・ミニで3回上映されます。
関心を持ってくれそうな人に声をかけたいと思っています。私はもちろんまいります。お時間ございましたらいかがですか。
 
 2024年9月11日(水)

 映画「ボレロ永遠の旋律」を見に行きましたのでひとこと。「ボレロ」という題名や個性的なリズムとメロディ、作曲者ラヴェルの名前程度しか知りませんでしたが事実に基づいたストーリーとのこと、ノンフィクションが好きな私には興味深いものでした。どんな芸術家でもスランプがあり、それをどう乗り越えるか、壁を打ち破る苦しみを経験するのですね。成功し賞賛を受けてもその栄光がずっと続くわけではない。一つが成功するとそこからまた苦しみが始まるのを映画「オッペンハイマー」でも感じました。周りからいろいろ注文を受けて作品を作っている内に、自分を見失うことがある。以前ある工芸作家から聴いたことです。職人というものは注文を受けたら間違いなく同じものをきちんと作るのが使命。芸術家は自分の個性を生かし独創性が生命。それを人がどう評価し共感してもらえるかの世界だと。
 バレリーナから依頼を受けてラヴェルは「ボレロ」を作曲するわけですが、あまりにも自分のイメージとかけ離れた踊りに苦悩するラヴェル。映画の最後のシーンでは彼の描く格調高い踊りと演奏が披露され感動しました。
 ラヴェルの家にグレーの猫が出てきたのも嬉しいことでした。
 
 2024年9月10日(火)

 今日は何を書こうかと考えなくてもすぐ書きたいことが出てくる日もあれば、何も思い浮かばない時もあります。今日はといいますと、シャンソン教室で1時間半歌いぱなしだったので声の訓練になってよかった、と思ったこと。終わってからのコーヒーとケーキでホッとしたこと。約2ヶ月ぶりにつくばの義兄に安否を尋ねたこと。姉が亡くって3ヶ月後に脳出血でたおれ3ヶ月入院リハビリを行い今は一人で生活できるようになっています。娘が二人同じつくばに住んでいますが、それぞれ家庭があり、仕事も持っているためなかなか父親のところへは行けないようです。週に1回ヘルパーさんと看護師さんが訪問してくれているとのこと。
普段話し相手がいないせいか、どちらかといえば寡黙な質ですのに、電話をかけますと一方的に自分のことをしゃべり続け、何と1時間。一生懸命生活具合を知らせなくてはいけないと思っているように感じました。私のクラスメイトで親友も今年になって脳出血で入院しリハビリを行い、最近退院できました。義兄も親友も言語障害はなく(少しゆっくりになっていますが)握力が弱っているそうです。元気が一番、とか健康が何より、というのは病気になった時に切実な言葉となるのですね。元気な時は「元気が一番」とはなかなか思えないものですから。
2024年9月9日(月)

 先日、掃除道具の大手レンタル会社の人が来て、2週間無料でお貸しするので使ってみてください、とのこと。この間はスーパーマーケットに行きますとスーパーのクレジットカードを作ってほしい、入会金年会費は無料、1000ポイントつきます、と言って薦められました。クレジットカードはなるべく減らし、何でもシンプルに生活したいと思っているので断りました。掃除道具のことに話を戻しますと、何十年も前にもレンタル契約をしていたことがあり、1ヶ月後に交換に来たらほとんどきれいなままのモップを手に急いで廊下を撫でてから渡したことを思い出し、再び同じことはしたくないと思いました。ところが使ってみるととても使いやすい。狭いところも掃除が出来るし、毎日きれいにしようという気になるのです。
こうやって営業に回って契約をとるんですね。でも無料の期間だけに終わり本契約に至るのは何パーセントだろうか、と考えてしまいます。
 どんなことでも作ることは出来てもお金を得ることは大変なこと。今更ながら感じる問題です。さて、掃除道具レンタルをどうするか…。
 
 
2024年9月8日(日)

 今日は掃除をすると決めていましたので朝からその態勢でした。庭掃除は気合を入れないと出来ません。玄関と門の辺りは毎日しますが。
 午前中3時間半かけて落ち葉掃き、大きなゴミ袋5つ。それでもどこを掃除したのか、という状態です。台風が来るというので水やりを控えたために小さな木は枯れていました。先日出没した毒キノコはどんどん広がるのではと心配しましたがほとんど萎んでいてやれやれです。
 
 私が掃除をしている最中、可愛い野良猫が数匹遊びに来ました。どの仔も本当に可愛くて出来ることなら飼ってやりたい。けれど近づくと逃げますし、アーモンだけで精一杯です。アーモンは逃げなかった、必死で助けを求めたから自分で幸せをつかんだのですね。
 
 
2024年9月7日(土)

 明後日9月9日は重陽の節句。この日がきますと23歳の頃のことを思い出します。東京銀座の銀巴里に出演したのも束の間、大阪の実家に帰りシャンソンのレッスンを続けておりました。それと大阪文学学校で詩の勉強をすることにいたしました。その学校は姉が児童文学の教室に入っていたことがあって知っていました。大阪文学学校の卒業生で最も有名なのは田辺聖子さんです。

 作詞に役立つと思って詩の教室を申し込んだのですが、そこは現代詩を学ぶところ。抒情詩的なものを書こうものなら場違いの居心地の悪さを感じました。 校長は小野十三郎で、プロレタリア文学の場。 皆の書く現代詩は難しく理解できないものでした。両親はシャンソンの世界もアウトローのように思っていましたが、文学の世界の方がずっとアウトローだと感じました。世間に背を向けて生きているというか、常識に沿っていては小説や詩は書けないというような世界でした。そこに溶け込むことは出来ませんでしたが、ある時私が雑誌社にいたことがあり校正が出来るというので事務局のアルバイトをたのまれました。西区阿波座にあった古いビルの2階の小さな部屋で仕事をした記憶があります。詩の勉強は1年もしませんでしたし、アルバイトもほんのわずかな期間でした。作詞には何の役にもたちませんでしたが、詩の勉強よりそこに出入りする人たちの人間模様が面白かった。また事務局が移転になるときお祝いの会で1曲歌ったような気がしますそのお礼に下さったのか、小野十三郎さんの色紙があります~木も草も石も みな陰影を持って いる 天地のはて~

 京都までシャンソンのレッスンに通っていた当時、先生の元にはプロを目指す人がたくさんおりました。9月9日、5人ほどが先生に引き連れられて京都のレストランで勉強のために歌うことになりました。その日大阪からわざわざ文学学校の受講生数人が聴きに来てくれたのでした。それだけのことですが、9月9日になりますとプロを目指していた若い頃を思い出します。まだ何も将来が見えなかった不安定な頃のことを。
                      
 
2024年9月6日(金)

 もう何十年も前から自分の年表を作っています。グラフ用紙に線を引き、縦軸は西暦、和暦、干支、自分の満年齢を書き、横軸は1月~12月。年齢を重ねるごとにグラフ用紙は長くなってきます。用紙の関係上、90歳まで線を引いてあります。小さな□には主な出来事を書き入れます。生まれてから幼稚園に入るまで、幼稚園、小学校、その後8年間の東京での学生生活、婦人之友編集部時代、銀巴里出演、そして11年ぶりに帰阪、それから第1回のコンサートまで12年。 その後は今に至るです。年表には簡単に事実のみ、感情的なことはいれません。それを作っておくと、何年の何月には何があったかすぐ分かり大変便利です。グラフ用紙で父の年表を作り覚えている範囲のことを書き込むよう薦めました。姉にも薦めましたがちゃんと作ったかどうか…。
 色分けしたその年表を見ておりますと、自分の生きてきた道程を俯瞰的に見ることができる。そして幼稚なことですが、落ち込んだ時など年表を見ますと、人生に無駄な時がないのが分かり慰められます。
 人生が分かるなどと傲慢な気持ちでなく、むしろ謙虚な思いにさせてくれる私の年表です。
  
2024年9月5日(木)

  本当は今日も写真を入れたいのです。今からその操作を始めますと何時になるか分かりませんので文章だけにいたします。
 ご参考までに私の失敗談を。
長い間Windows7を使っていましたがサポートも終わりいろいろ不具合が出てきましたのでこの春Windows11に買い換えました。そして一ヶ月も経たない時のこと。電源を入れて立ち上がり最初の画面には、可愛い猫の写真や興味をひかれそうなニュースが載っていて何かをクリックしたのです。すると突然画面がブルーに変わりパソコンからけたたましい警告音が出てきました。一体何が起こったのか見当がつきません。画面には電源を切るな、ウイルスがどうのこうの、大切なデーターが消えるだの、とにかく音と文章で冷静さを失わせるのです。その時すぐパソコンの先生に連絡すればよかったのですが、一刻も早く事態を解決したい一心で電話番号のところへ電話してしまったのです。それが間違いでした。すぐ男性が出てきて日本語は話すけれどアクセントが少し変でした。それでこれはおかしいと感じましたが途中まで誘導され、「ここまでは無料だけれどこの先は3年契約なら幾ら、5年なら」と言い出しましたので、「すぐには返答できませんのでこの段階でもう結構です」と言いましたらガチャンと電話が切れました。詐欺グループにお金は払っておりませんが、後日パソコンのメーカーの関連会社から出張で修正に来てもらうはめになりました。購入したとき5年の保証に入っていましたが、パソコンの故障ではないので保証はしてもらえず無駄な出費でした。こういう時はすぐ電源を切ればいいというのは後で分かりました。
そして決して電話をしてはいけないこと。これは自分の愚かさゆえのことで、二度と同じ失敗はするまいと肝に銘じております。
 
  
2024年9月4日(水)

 昨日ひとことを書くつもりでおりましたのに入力がうまくいかず休んでしまいました。今日はパソコンの先生から写真の入れ方を教わりましたので練習してみたのをそのまま使うことにいたします。

 左の白いものは庭にひょっこり生えたキノコです。もっとたくさん出て来てとても面白いのですが、新しい写真を入れるにはかなり時間がかかりそうですのでまた明日にでも。 調べましたら毒キノコでオオシロカラカサタケというそうです。
日本では福島県以南に見られ、帰化キノコ。地球温暖化で分布を広げているそうです。台風の騒ぎが終わったと同時に庭に現れました。


 右の写真は猫アーモンがポアロを見ていて、何か動いたのか手でパシツパシツ叩いてるところです。 私の好きなテレビは映像の世紀やドキュメント番組、そのほかアガサ・クリスティーのポアロや外国のミステリーが好き。録画しているのは特に心に残ったNHKの「心の時代・宗教・人生」最近ではヴィクトール・フランクルそれでも人生には意味がある。あと1回今月最終の放送があるので楽しみです。フランクルの著書を買って本棚にありながらまだ読んでないとは我ながら困ったものです。 
アーモンが今ゴロゴロと甘えにきてキィボードを叩いている私の手に乗っかっています。重く手を動かしずらい。それでもじっと耐えています。あっちへ行けなんて言えません。親ばかです。
 
 
 2024年9月2日(月)

 2002年のリサイタルで唄った歌を聴きたいと古いテープを捜しましたが、その年のだけ見当たらない。いくら捜しても見つからない。こういうのはとても疲れます。 最近のはCDに録音されているのですが、かなり前のはカセットテープかもっと小さなもので専門家でなければ操作できないのです。ちゃんと整理しておくべきでした。何も書いていないテープやMDを一つ一つ聴くのは膨大な時間がかかりそうで残念ながら断念しました。こんな時は他の方法を捜すのがよいかと。

 哲学の読書会のメンバーが一人ずつ読んだ本の発表をするのでいらっしゃいませんかと友人のお誘い。興味を持ちましたので予定していたところ台風でキャンセルに。どんな時もキャンセルは本当にがっかりします。それでショートメールで「昨日は台風の影響があまりなくて残念でした」と送りました。あとからこれは変な文章だと気づき、「読書会がキャンセルになって残念でした」と追伸しました。つまり台風がこなくてお天気だったのでキャンセルする必要はなかったみたいですね、と言いたかったわけです。友人からの返事に、「雨が降らずお庭の水撒きのことかなと考えてました」という返信。追伸を送ってよかったと思ったことでした。 印刷に出す文章でしたら一字一句確かめ何度も推敲しますのにメールやこのブログはあまり時間をかけずに書くことと説明文にならないよう簡潔に書きたい気持ちがつい言葉足らずになる。今後気をつけることにいたします。
  
 2024年9月1日(日)

 ジャーナリストの池上彰さんが母校自由学園に特別講演で来られました。6月22日のこと。100周年募金委員会主催です。私は行けませんでしたが、昨日「学園新聞」 が送られてきて内容がよく分かりました。新聞によりますと講演のテーマは『学び続ける力』。リベラルアーツ、真理、言語の大切さの3つ観点から学び続ける力とは何か、について語られたとのことです。長時間の講演内容を的確にまとめた記事を載せたい気持ちですが、それは差し控えます。その中で特に心に残ったのは、~答えのない問題に問いを立て、一人一人自分で考えることが大切~   ~フィリピンのスラム街の子供は学校に行けない。出張授業の先生に勉強を教えてもらった子供の言葉「これは決して盗まれることのない財産だ」と~  ~教養は知識の運用力だ~
 具体的な話の一部分だけを取り出すのはどうかと思いますので、私の心にとめておくことにいたします。  
  
2024年8月31日(土)

 ここ数日予定がキャンセルになり、外も雨模様。そこで前々から気になっていたレコードとCDの整理をいたしました。レコードは重く並び変えるのも力がいります。CDはいくつものケースに五十音順に並べ取り出しやすいように。 懸念していたことが一つ片付きました。

 12月1日のランチコンサートまで3ヶ月になりました。お客さまはどのような歌を望んでおられるのか、いつもそれを頭におきながら選曲するのですが、これは本当に難しい。 自分よがりではお客さまは離れる。かと言って皆の知っている歌ばかり歌っていると主体性のない人間になってしまいます。音楽評論家で訳詞家の永田文夫さんは言われていました。
 シャンソン歌手は音楽的に正確であることより、その曲をどのように解釈し、個性的な表現で聴き手に伝えるかが評価される。またシャンソンを初めて歌って成功させることをクレアシオン(創唱)というがシャンソンでは特に重んぜられる。
その言葉を重く受け止めておりますので、選曲には時間がかかってしまいます。 それはともかく聴いてくださる方の心に沿う歌を唄うためには私自身に熱い思いがなければ本当の歌は唄えないと思っています。
 
 2024年8月30日(金)

 大阪では台風10号が生活に及ぼす影響はまだ感じられません。これから先どのような進路で進んでくるのか確かなことは分かりませんので落ち着かないことです。 外の掃除をしたいと思いながら、今から台風でもっと落ち葉が増えるだろうからと数日そのまま。気がかりです。
 
 奧田真祐美ホームページに昨日リンクの欄を作りました。 「真祐美通信」第93号、このブログでもご紹介した洋画家の中西繁さんのホームページです。中西繁さんのブログを拝見しておりましたら実に幅広く行動、活躍されていて、井の中の蛙の私には教えられることばかり。 リンクを開設して初めての方です。どうぞよろしくお願いいたします。

 
 先日、24年前2000年のディナーショーの折に募ったリクエスト曲の集計を載せました。 今日2005年ホテル阪急インターナショナルで行ったディナーショーの時のリクエストが出てきました。それによりますと、第1位は「夜と霧」、第2位「二度とない人生だから」、第3位「クスノキのうた」、 第4位「桜んぼの実る頃」、第5位「愛の讃歌」、第6位「さとうきび畑」、第7位「理由もなく」、第8位「アメイジンググレイス」
ということでしたが、新しく出したCDの影響と、私があらかじめ50曲を選びその中からリクエストしていただいたので、2000年の時と同じ条件ではありません。それにいたしましても圧倒的に「夜と霧」「二度とない人生だから」「クスノキのうた」が多かったことは本当に嬉しい。
 
 
 2024年8月29日(木)
 
 約8年ほど、この「真祐美から」の欄にブログを書くことを怠っていた。なのに最近は毎日書いている。やる気が出てきたわけで、やる気、とかその気になるというのは心に不思議なスイッチが入ったからだ
もう一つは長い間使っていたパソコンが使えなくなりやっとの思いでWindows11に買い換えたその二つがきっかけだ。
  どなたが見て下さるか分からないが、こんな考えの人間もいるのか、と読んでもらえればいいと思っている。

  子供時代、今頃の時期になるとツクツクボウシが鳴いていた。なにかさびしげで「もう秋だなあ」と思わせられた。このセミの声はそろそろ東京の学校へ帰らなくてはならない合図だった。50日間の夏休みを終え帰京の準備を始める。柳行李(やなぎごうり)に衣類や勉強道具を詰め、チッキ(国鉄の荷物運送)を近くの駅まで運んで行った。宅配便も携帯電話も新幹線もなかった。今の便利さを知らないから不便だとは思わなかった。江戸時代の人々は歩いて旅をした。大変でも、こんなもんだ、と覚悟して暮らしていたはず。私も8年間の寄宿舎生活をつらくてもこれが修行だと思っていた。クラスメイトの中には楽しい思い出をたくさん持っている人もいる。今更それを羨ましがっても仕方ないし、もう一度学生時代に戻ったとしても適当に楽しく遊んで暮らす生き方は出来ない。悔いはあってもその時はその時で精一杯だった。
 卒業して何年と経っているのに、ツクツクボウシという名前を思い出すだけで十代の自分が甦る。
  
 
 2024年8月28日(水)

 目覚まし時計より早く目が覚めた。いつものように窓を開ける。生暖かい空気が漂っている。早朝の冷気がない。台風10号は自転車なみの速さだという。まだ雨も風もない。猫にカリカリをやり飲み水も替える。猫のトイレを点検。ゆっくり着替えて家を出る。今は明るいが冬は真っ暗。外に人影はない。長居公園に入るとすでに早起きの人たちの姿があちらこちらに見える。犬の散歩の人も多い。犬を連れている人同士仲良く話をしている。犬友だ。
 公園の一角に空き缶を集めている人が数人いる。2年ほど前はテントをはって暮らしていた。そこに可愛い黒白の子猫がいてテントの人たちに可愛がられていた。寒い時は猫と一緒に寝るんですよとのことだった。
 猫好きは毎朝ラジオ体操のあとそこへ寄って人懐っこい子猫の相手をしていた。 子猫の爪が伸びているから猫の爪切りで切ってやろうということになり、私も手伝った。するとホームレスの人が、外で暮らす猫は何があるか分からない。木にパッと登らなくてはならないから爪を切ってはいけない。と言った。その言葉に猫好き仲間は反省させられ、二度と野良猫の爪切りはするまいと思った。
 ある日のこと、皆のアイドルだった子猫が誰かにさらわれてしまった。ホームレスの人も猫好きも皆で心配し、いろいろ情報を集めて何とか助けようとしたが、見つけることが出来なかった。子猫が幸せになっていればよいのだが。
 今は空き缶はあってもテントはないのでホームレスの人もちゃんと生活が出来ているのだろうか、と思う。  
 
 2024年8月27日(火)

 今から24年前、私のCD5枚の中からリクエスト曲を募り統計をとったことがある。その頃はまだ『愛ただそれだけ』『奧田真祐美ジャン・フェラを歌う』『愛をみつめて』『雨』『千の風になって』は出していなかった。 もし今リクエスト曲を募ったら全く違ったものになると思う。
 2000年(平成12年)=第1位『百万本のバラ』 第2位『愛の讃歌』
第3位『理由もなく』 第4位『芭蕉布』 第5位クスノキのうた』だった。
 男性の方が多い曲は『小さなひなげしのように』『ミラボー橋』『王様の牢屋』 『人生は美しい』『もう一度愛を』他。 女性の方が多い曲は『百万本のバラ』『聞かせてよ愛の言葉を』『トワ』『スカーフ』『歌い続けて』『ロレットに歌う』『しあわせな3日間』 他。男性女性同じ数だったのは『理由もなく』『クスノキのうた』『愛し合った日々』他。
 この統計に深い意味はないが、聴いてくださる方の好みや傾向を知りたかった。私自身、状況や心の変化によって歌の好みや歌い方も変わる。 歌に感情移入しすぎてはよい歌とは言えないが、心から思いを込めて歌いたいと思ったときの歓びは大きい。 
 
 2024年8月26日(月)

 明後日から明々後日にかけて強い台風10号が西日本、東日本を縦断するおそれがあるという。ニュースでは警戒と備えをするように言っているが、なにをどうしてよいやら。 2018年に近畿を襲った台風21号を思い出す。台風直撃の前日、近鉄文化サロンからシャンソン教室休講の連絡があった。その時は青空に太陽は輝いていたので台風など信じられない気持ちだった。翌日、雨戸を締めたまま書き物の用事をしていたが、午後3時頃ふと2階の雨戸を開けた。私の目に飛び込んできたのは、一瞬目を疑う光景だった。庭一面クスノキの折れた枝が散乱していた。かなり太い枝もバキッと裂けていた。カラスが巣を作るために集めた針金のハンガーは100本近く落ちていた
庭だけではない。家の前の道路にまで木の枝が一面に落ちていたので急遽植木屋さんに助けを求め、道路の片付けにかかった。近所の方も一斉に掃除に駆けつけて下さった。クルマが通るので早く片づけなくてはならない。必死だった。あれは9月4日。何日も何日も台風の残した傷跡の修復に時間がかかった
 翌年の3月、傷ついたクスノキの大がかりな剪定をした。幹はそのままにほんのわずかな枝を残しただけの姿になってしまった。それから6年、今では台風の時のクスノキより元気でしっかりした木に生まれ変わった。 今回の台風がどうか6年前の悪夢をよみがえらせないで欲しいと願うばかりだ。 
 
 2024年8月25日(日)

 2020年、緊急事態宣言が出された時、まず手がけたの詳しいは履歴の整理とリスト作成、それから物置に眠っていた古い着物のハギレと打ち直してある真綿で野良猫用の小さな座布団を10枚作った。その頃はまだアーモン(我が家の猫)はいなかった。そして、その年のリサイタルで歌いたいと思い、フォーレの『夢のあとに』の日本語歌詞を作ることに集中した。何年も前から歌いたいと思っていて、訳詞家のアン・あんどうさんに依頼したがクラシックすぎるからと却下された。次に永田文夫先生に資料をお渡ししてお願いしたがジャン・フェラの訳詞はして下さったがフォーレはそのままで、お二人は鬼籍に入られた。そうなると自分でするほかない。私なりに懸命に考えて歌詞が出来たが、2020年からはリサイタルを開催することが出来ず、発表の機会がないまま5年が過ぎた。メロディと歌詞とがちゃんと合うか、私の声で歌えるかどうか、5年の眠りから覚めて『夢のあとに』が歌えたらコロナは無駄ではなかったと思えるだろう。 
 
 2024年8月24日(土)

 浴衣を着て盆踊りをしたことがない。見に行ったこともない。両親、姉と近くの氏神さん(山坂神社)の夏祭りに行ったことはある。家族みんなそれほど祭り好きではなかったからか、普段からお祭り騒ぎをした覚えがない。 それはさておき、数少ない祭りの思い出、母に連れられ小学生の頃、12月の奈良春日若宮おん祭に行った。わけはわからなかったが、「お母さんは奈良の伝統ある行事を見せたくて連れて来てくれたんだな」と思っていた。20年くらい前には1月14日奈良五條の念仏寺陀々堂で行われる鬼走りという祭に3回ほど行った。
まだ観光化されておらず、地元の人たちが集まっているという感じだった。木で作った鬼も面をつけタイマツを灯してお堂を走り回る。素朴で迫力ある 素晴らしい祭だった。十数年前には富山のおわら風の盆に行った。 本棚に高橋治の小説『風の盆恋歌』があるから行く前か行ってから読んだのか、覚えていない。時間があればもう一度読んでみたい。この祭もかなり観光化されていたので胡弓の音色に浸ることは出来なかった。見る場所と時間が適当ではなかったのかもしれない。
 数年前には高知県のよさこい祭を見た。炎天下の元、お腹の底まで響き渡る音量に合わせて踊る元気な人々の姿に圧倒された。 前日に行われた花火大会は実に見事だった。花火には音がなくてはならない。
 最も近いのでは先月の京都祇園祭。それくらい。 
 
 2024年8月23日(金)

 私は生まれたところに今も住んでいる。引っ越したことがない。学校を卒業して東京から大阪へ戻るまでの約3年間では3回引っ越した。しかしそれはすべて仮の住まいだから家を引っ越したことにはならない。大人になって戻った実家の庭にはクスノキが変わらず家の主の顔をしていた。私だけでなく父や祖父の生まれる前から生きてきたクスノキ。クスノキは庭木には向いていない。大きくなり素人には剪定できないし、春には落ち葉の掃除が並大抵ではない。樋には詰まるし、葉は腐葉土になりにくい。一方でクスノキは樟脳に使われる役に立つ木でもあるし、枝を切ったり落ち葉を燃やすと実にいい香りが漂う。私はクスノキと共に生きてきたから樹木の中では最も親しみがあり大切に思っている。
 クスノキにまつわる話として楠学問という言葉がある。デジタル大辞泉(小学館)によると、楠は成長は遅いが着実に大木になる。進歩は遅くても堅実に成長していく学問。梅の木学問というの生長は早いが大木にはならない。にわか仕込みの不確実な学問のことをいうとある。出典は「わらんべ草 狂言昔話抄」。
 これでは梅の木に罪はないのにこのたとえ可哀そうな気がする

 クスノキは寿命が長く、霊の宿る神秘的な木と言われる。
 宮崎駿のアニメとなりのトトロの木はクスノキらしい。 
 
 2024年8月22日(木)

 ヨガに大人のバレエ、タップダンス、スポーツジム、テニススクールにも行ったが現在ずっと続いているのは朝6時半からのラジオ体操だけ。歩いて15分のところに長居公園があり、時間になるとスピーカーからラジオ体操の音楽が流れる。指導者はおらず各自好きなところで勝手に体操をする。元旦も行く。小雨なら傘をさして行く。学生時代の体操といえばデンマーク体操だった。
 ラジオ体操はスウェーデン体操とデンマーク体操とリズム体操を日本風にアレンジして作ったという。
 1928(昭和3)年8月、初めて国民保健体操としてNHKラジオから放送され、1952(昭和27)年に第2体操が出来た。
 私はラジオ体操が好きだから楽しんでやっている。難しくないから続けられるのだろう。ラジオ体操の専門家ではないから完璧ではないかもしれないが、手抜きはせず一つ一つの動作をキチンとするよう心がけているだけ。
 美輪明宏さんも毎日ラジオ体操をされているとのこと。ラジオ体操にはぴょんぴょん跳ねるのもあるから、美輪さんのその姿を想像し嬉しくなった。
  長居公園では第2体操が終わると好き勝手に「アー」とロングトーンで大きな声を出す。それで今日の日課は終わり、三々五々家路に向かう。
  
 
 2024年8月21日(水)
 知らないうちにスマホの画面が変わっていた。必要なアプリが見当らない。定位置にない。不要な物が貼りついていて動かない。キィーボードの色も変わっている。あれやこれやさわってみてもさっぱり分からない。疲れてしまってドコモに電話する。ようやく11時になって繋がった。簡単なことでも予約しなければならない。予約時間に行き、やれやれ何とか修復できた。ところが家に帰ってメールを送信しようとしたら送信できなくなっている。また電話する。すると、さっき対応してくれた若い青年は「そこはさわってない」と言う。さわってなくても何かが変わってしまったのだ。明日の予約を入れ、また行かなくてはならない。新しいスマホにしてから何度通ったことだろう。
 
 インターネットでホテルを予約しようと思った。初めてのこと。これも難しい。ログインやらパスワードやらメールアドレスやらクレジットの番号を入れなくてはならない。途中まで入力したものの最後まで到達せず。切符はみどりの窓口がいい。ホテル予約は旅行会社がいい、と思ったが、予約でなければ受け付けないという。スマホパソコンを使いこなさなければ生きづらい。いい加減頑張って覚えよう。 
 
 2024年8月20日(火)

 夜更かしをしないようにしているので昨夜書いた「ひとこと」は中途半端になってしまった。今日はその続きを。
 自分の幼稚さをさらけ出すようだが。

 12歳普通科(中学部)の入学したばかりの時、読書の時間に読んだのは学校の創立者羽仁もと子の著作『子供読本』だった。そこに
は創作のいろはがるたが書かれていた。47つの項目があり、その中の2つが子どもの私の心に刻まれた。今本を開いてみると小学生の低学年が読めそうな文字と内容だ。
 
  かわいい子には旅をさせ=そこにはこんな文章が載っていた。
われわれの旅には、なかなか苦しいこともあるが、強いものにはそれだけおもしろいものです。お供をつれないで、力づよく忍耐づよく、一人で旅をして下さい。かわいい子には旅をさせとは、そのことです。
 親元を離れて寄宿舎生活を始めた私にはこの言葉は強い支えになった。いまも心の奥から離れない。

 打てばひびく=これは文字通り、何事もすぐ何らかの返事をする、報告をする、感謝を伝えるといったこと。反応することを心がけているが、これは私の生まれつきの性格みたいだ。

 「やってみよう」と「どうせ駄目だ」=これはいろはがるたではなく、
『野の花の姿』という本に書いてある。
 我々の精神生活に、二つの動力がある。「やってみよう」とみずから励ます動力、一つは「駄目だ」と押さえる動力。どうせ駄目だという絶望的な考えでなく、「やってみよう」という希望的な人生観を持って生きる大切さを学び、これも私の人生の指針となっている。
 子どもの心に蒔かれた一粒の小さな種、いまだに消えず生きている。

 古い本に私が赤線を引いている箇所がある。忘れていたが、大事だと思ったからだろう。羽仁もと子の文章。
 ~私たちにはただ世間なみということや、これこれのことをしたというだけでは満足のできない、自分に対する、さらにより以上の多くの要求のあることを思わせられます。パウロの「我が欲する所の善」
といったのはそれです。~
  
 
 2024年8月19日(月)

 今までにない暑さのせいか、行動が遅くなってしまった。以前なら1日にいくつもの用事が出来ていたが、今は1日に一つ何かが出来たら良しとしよう、である。今日も一つ予定していたことが出来たので嬉しい。しかし他にもすべきことがあるのに無駄な時間を費やしてしまった。
 12歳の時両親の元を離れ上京、学校の寄宿舎に入ったが、真冬でも朝5時半起床、10時半の就寝まで忙しくてぼーっとしている時間などなかった。かといって勉強する時間もあまりなかった。学問的な勉強は身についていないが、入学したてに読んだ羽仁もと子著作集の中の教えが今でも私の指針となっている。
 一つは、やってみようとどうせ駄目だ。
 一つは、打てば響く。
 一つは、可愛い子には旅をさせ。 
 
 2024年8月18日(日)

 先日放映されたテレビでの話し。平成生まれの青年何人かに「8月15日は何の日か知っているか」との質問にまともに答えられた人はほとんどいなかった。びっくりしてしまった。テレビは若者のその返答についてどう思うかノンフィクション作家の保阪正康さんに尋ねていた。保阪さんは「最初はこんなことも知らないのかと腹立たし思いがしたが、よく考えてみると自分も若い頃過去の戦争について何も知らなかった。今の若者が知らないのは当たり前だ。戦争を知っているものが教えてこなかったからだ。そもそもなぜ戦争が始まったのか国民には知らされなかった。」といった話しをされた。そういえば私も学校で近代史をちゃんと学んだ記憶がない。教えられなくても自分で本を読んで勉強すべきだが、してこなかった。8月15日が何の日か知らない青年に驚くことはないかもしれないが、やっぱり驚く。

 だいぶ前に森村誠一の「悪魔の飽食」という本を読み衝撃を受けた。読んだ当初は日本人は皆第731部隊のことをちゃんと知らなければいけないと思った。まだまだ知らずにいることが多い。世の中の真実事実をもっと知りたい。 私の頭で理解できるか自信がないが。 
 
 2024年8月17日(土)

 久しぶりに張り合いがあるという気分を思い出した。少しずつ薄皮をはぐように気持ちが前向きなってきた。といっても日によって晴れ晴れした日もあればどんより落ち込む日もあるから、これからずっとそのような心境で過ごせるわけにはいかないだろう。コロナで身動きが取れなかった時でもアクティブにライヴ活動を行っているミュージシャンもいた。インターネットを駆使して。しかし、決して焦るまいと自戒していた。自分の中でふつふつとやろうという思いが湧き上がってくるまで待とうと。 目標を持って生きることがどんなに大事か、どんなに幸いか。精神科医のヴィクトール・フランクルの言った「どんな人生にも意味がある」を思い出す。 
 
 2024年8月16日(金)

 母校のクラス会の案内が届いた。目白にある明日館で行うとある。フランクロイドライトの設計した建物で重要文化財になっている。クラスメイトが、せっかくだからクラス会で歌ったらどうかしら、と持ちかけてくれた。それにはまず歌うことが可能かどうか会場の責任者に問い合わせなければならない。即電話してみた。すると生音ならよいが音響を入れた音楽は禁止とのこと。近所の迷惑になるといけないから、が理由だ。クラシックと違ってポピュラー音楽は音響が大事だから簡単にどこでも歌うというわけにいかないのだ。2002年にはそこで自由学園創立80周年記念事業として奥田真祐美&藤井いづみ シャンソンと語りの夕べを開催したのに22年後は使えなくなっている。
 東京でのライヴを企画するなら明日館が第1候補だったのに残念だ。 
 
 2024年8月15日(木)

 父は昭和19年赤紙がきて兵隊に行った。中国の岳州というところへ行ったという。物資を運ぶ部隊だった。戦地でどのような生活をおくっていたのかまったく知らない。同じ部隊でも戦死した人が何人かいる。父はよくぞ無事に帰ってこられたと、終戦記念日の今日改めて感慨深く思う。母は奈良の実家に疎開していた。昭和21年に復員した父は母の元に行き2年余ぶりに再会した。父はそこで1歳数か月になる我が子と対面した。姉は言葉が早かったらしく初めて会った父に「お父ちゃん」と言ったというのだ。この話は母から何度も聴いた。何も教えてなかったというから驚く。父はびっくりしてそして「抱いたろか」と言ったという話も何度も聴いた。父の戦争体験談をもっと聴いておきたかった。本当に残念でならない。
 今私がしなくてはならないことは何か、しておかなければならないことは何か、考えたい心境。
 
 
 2024年8月14日(水)

 久しぶりにジャン・フェラのCDを聴いた。『奥田真祐美ジャン・フェラを歌う』というCDの収録13曲中8曲は日本では誰も歌っていない歌だった。譜面も市販されてないから専門家にCDから採譜してもらう。歌詞は、フランス語から日本語歌詞にするため訳詞家に頼むか自分で訳詞をするか。 それをステージで歌うにはアレンジを頼みオリジナル楽譜を作らなくてはならない。 いろいろな段階を踏んで日本での創唱者になるには時間と経費がかかる。それは当然のこと。それに歌の手本がないから誰かの歌を参考にしたりマネたりすることは出来ない。もっとも人まねは何より嫌うことだからマネできないのは嬉しことだ。どんなキィがもっともよいか曲と言葉が自然に合うこと、聴く人にちゃんと伝わるかどうかが大事である
 CDのレコーディングの時には何度も元歌を聴いた。 何といっても原曲にはかなわない。 ジャン・フェラはシンガーソングライターでプロテストソングの一人者だからどのような意図でこの歌を作ったのかを考えるのも大切だと思っている。思っているが理解するのは難しい。
 ジャン・フェラの歌を聴きながら、「こんなに素晴らしい歌をもっと多くの方に知ってもらいたい」と思わずにいられなかった。

  グラシェラ・スサーナの作曲で『街燈』という歌があり、若い頃銀巴里でリクエストをもらいよく歌った。これも本当に久しぶりに聴いた。せつなくて涙が出そうになった。  
 
 2024年8月13日(火)

 姉は昨年の6月に亡くなったというのにもうこの世にいないとは思えない。 一家4人で暮らしたのは私の小学5年生までと私が東京から戻ってからの3ヶ月間だけだった。 姉は結婚して札幌へ行きその後東京で数年、そしてつくばに根を下ろした。
 姉は生涯の仕事にストーリーテラー(語り部)の道を選んだ。グリムの昔話をはじめ世界のお話を子どもだけでなく大人にも語る活動に情熱を注いだ。 ストーリーテラーを志す人の指導も行い、日本各地を飛び回っていた。 お話の研究に毎年海外へ旅していた。姉は忙しく、用がないのに大阪の私と電話でしゃべったりすることはほとんどなかった。 毎日私から電話をかけてとりとめのない話をしたのは亡くなるまでの3ヶ月間だった。 今日、本棚にある姉の著書を見ていたら私宛のカードが出てきた。 「真祐美様 おたんじょうびおめでとう。またどんどん年を重ねていくことになるけれど、お互いに元気でいようね。 2018年12月25日」というメッセージだった。 
 
 2024年8月12日(月)

 昨日の毎日新聞・カルチャースコープという欄に『平安以来 心温まる絆』という見出しで猫のことが載っていた。猫好き人間は「猫」という文字がすぐ目に入る。平安時代から貴族の間では猫を特別に可愛がっていたようだ。貴族でなくても農家はネズミ退治に猫を飼っていたのではないかと思うが。
 今も我が家の猫アーモンはパソコンの横で寝そべっている。さっきまで1階の廊下で脚を広げて寝ていたのに、私の行くところ行くところへついてくる。安心なのだろうか。
 数年前から猫ブームだと言われているが、ブームと関係なく猫を愛する人にとったらブームという言葉は邪魔である。ブームに乗るのは私の好みではないから時代に取り残されていることが多い。 
 
 2024年8月11日(日)

 洋画家中西繁さんは建築家を辞して画家一本の道を選ばれ、今から20年前、57歳から2年間パリに留学されたモンマルトルのゴッホが住んでいた部屋がアトリエだった。それだけでも興味深い話だ。
 最近、中西繁さんのリトグラフに出会ったのでその話を書きたいと思う。画題『ルナ』月という作品は龍安寺の石庭が描かれている。大きさタテ60センチ、幅80センチ、全体が深い青の世界。月のあかりに照らし出された石、砂の流れ、低い塀の向こうに立ち並ぶ木々の葉も何かを語っている。静寂という言葉が心に浮かぶ。静かな静かな世界。小さな満月の輝きで闇夜は生命を与えられる。そんな感じがした。中西繁さんのこの作品はリト・ド・パリというロートレックがムーラン・ルージュのポスターをリトグラフで作っていた工房で作ったという。
 
 唐突だが、引き込まれそうな群青の石庭を見ながら、闇夜と月の光にこんなことを思い出した。
 私はシャンソンと猫には共通性があると思っていて、28年前『猫とシャンソン』というエッセイ集も出した。その中の一節。

 猫もシャンソンも闇夜の華、美しくあやし気な魔力をもつもの。心を奪われたらだんだん深味へはまってゆく。尽きるところは、両方とも心をなぐさめてくれるという一語。そしてあとひとつ、そばに愛する人がいてくれたらもう言うことはない。ただプロとして歌うことには苦しさがともなうが、猫は私を苦しめない。 
 
 2024年8月10日(土)

 今日東京に住んでいるクラスメイトと電話で話をした。気がつくと2時間過ぎていた。在学中はほとんど話す機会がなく卒業して何十年と経ってようやく親しく話せるようになった。実家は九州福岡、医者一族の家庭で育ち、お見合い結婚のお相手は一流企業のエリート商社マン。海外で暮らした生活の話や交友関係の話や学生時代のエピソードなど話題は尽きなかった。
 私たちは一学年一クラスだけで、5年もしくは8年間クラスは同じメンバーだった。それなら親しくなりそうなものなのに、話をしたことがなかったクラスメイトもたくさんいた。本当はいい人なのに近寄れない人がいた。イジメにあったことはないが、こわい人はいたのだ。派手な人は苦手だった。ところが今になると苦手な人はいない.。話術は巧ではないが、初対面の人でも相手が無口な人でも一対一だと話をしたいと思うのだ。自分のことを話す前に相手の方の話を聴きたいと思う。
 それは28年間、冊子『インフォルモ』で芸術家や人間国宝の方に会ってお話を聴き、原稿を書く仕事を経験したお蔭である。素人のインタビュアだから下手なインタビューだったが、ありがたいことに文章を訂正されることはなくご本人からお褒めの言葉を頂いたときは何より嬉しかった。小学校の頃は作文が何より苦手だったから。
  
 
 2024年8月9日(金)

 この頃頻繁に地震のニュースが入ってくる。前触れもなく突然おこる現象だからこわい。私が住んでいる大阪では経験したことがないのでそのおそろしさは想像するだけだ。2階にいた方がよいのか、机の下に身を寄せればよいのか、非常用必需品は常に手元に置いておけばよいのか、どうすればよいか分からない。取りあえず猫を入れるバックを購入した。かなりの重量だ。7キロの猫を入れて他にも荷物を持って持ち歩けるか不安になる。猫のトイレ、餌はどうするか。考え出したら頭が痛くなる。先の備えをしっかり考えることが出来ていない。世の中どう変化するか分からない。その時その時、その場その場で対応していきたいと思うのみだ。
 
 
 2024年8月7日(水)

 2007年に上映された映画『エディットピアフ愛の讃歌」が昨日 テレビHNKBS で放映、録画しておいたので今日見た。映画も見たのだが17年前のことで始めてみるような新鮮さがあった。ピアフになりきっていたマリオン・コティヤールの演技は素晴らしかった。
 知っている歌を聴くと感動するというが、今日鳥肌が立つほど、涙がにじんでくるほど心に迫ったのは『私の神様』だった。他、『水に流して』も。『愛の讃歌』『私の回転木馬』『群衆』『パダムパダム』『バラ色の人生』『アコルデオン弾き』などなど。レコードで聴くのと違い映画の中で聴くのはストーリーの一部だからか生きた歌だった。
 恋多きピアフがもっとも愛したのはチャンピオンボクサーのマルセル・セルダンだという。二人の往復書簡が本になったのを持っているが、一人の女性の胸の内が手に取るようにわかる。 
 
 2024年8月6日(火)

 79年前、広島に原爆が投下された日。映画『オッペンハイマー』が頭に浮かんだ。この日アメリカでは原爆の成功で湧いていた。オッペンハイマーは英雄だった。束の間だったが。アメリカでは原爆は正当化されていた。立場立場でものの見方考え方が違うことを痛感させられる。相手の立場になって考えることは本当に難しい。それが出来れば戦争は起こらないはず。と思う。

 前に愛について教えられた。愛には4つの言葉があると。ギリシャ語で1) アガペー=神の愛 無償の愛、理性的な愛 2)エロス= ギリシャ神話に出てくる恋愛ををつかさどるエロースに由来する言葉で、本能的な愛、恋愛  3)フィリア=友愛 4)ストルゲー=家族愛

 シャンソンの『愛の讃歌』は恋の歌だからアガペーの愛を歌っているわけではないけれど、見返りを求めず犠牲的な愛を感じさせる歌詞だからある人は「無償の愛」を歌っている歌だと言う。
 
 
 2024年8月5日(月)

 12月1日にランチコンサートを開催するのでチラシと案内状作りをしている。こういうのは早すぎても遅すぎてもダメで発送するタイミングが難しい。昨年来て下さった方は今年も、というわけにいかない。皆さまそれぞれ都合があるのだからと分かっていても行けないと言われると悲しい。しかし厳しい世界なのだからそのようなことで落ち込んだり顔や態度に出してはいけない。1984年から2019年まで36年動員の大変さを経験してきたが決して慣れることはない。

 今日はパリオリンピックの開会式で歌ったセリーヌ・ディオンの『愛の讃歌』について書くつもりだった。開会式を見損なったので今日になってインターネットで聴くことができた。もしあの場でエディット・ピアフが立って歌ったらどうだっただろうと思った。『愛の讃歌』は感動を与えるドラマティックな曲だ。エッフェル塔で歌うという大胆な演出。美しいフランス語での力強い歌唱に多くの人が心奪われた。原詩は甘ったるい恋の歌詞ではない。魂の叫びのような歌詞だからこそ朗々と格調高く歌えるのだと思った。
 シャンソン歌手の友人は「私はピアフの歌の方がずっと好き。オリンピックの大役なので少し力んでいたように思う」と言っていた。本来のピアフの『愛の讃歌』を知っている者の感想である。しかしながら難病の治療中でありながら堂々と歌った姿は立派だった。 
 
 2024年8月4日(日)

 奈良五條の近内に祖母の生家がある。30年間無人だった家を私のはとこの藤岡宇太郎さん(当主)が修復し、登録有形文化財・藤岡家住宅として一般公開されることとなった。開館記念式典が行われたのは2008年11月11日。紆余曲折を経て多くの方の知恵と力でその日を迎えた。藤岡家住宅を管理運営するのはNPO法人うちのの館で、初代理事長は田中修司さん。柿の葉ずしたなかの相談役だった田中修司さんは藤岡家住宅・うちのの館のために一生懸命力を尽くして下さっていた。理事長を退任されてから数年になるが、先日93歳11ヶ月で天寿を全うされた。
夫人の孝さまは3年前に逝去。お元気な時は五條のお仲間とご一緒にリサイタル、ディナーショーにお越しいただいたり、五條でイヴェントがあった際にはご自宅を控え室に使わせていただいたり。
 コロナのせいだけではないが、いろいろな催しを企画実行していたうちのの館での活動は形が変化しつつある。学術的な面を掘り下げて研究されている館長兼学芸員・川村優理さんの能力は見事だ。
 地理的に五條新町のように観光に訪れる人が少ないうちのの館の存在をもっと知ってもらいたい。私にできることは何かと考えている。 
 
 2024年8月2日(金)

 天気予報で晴れのマークが続いているとがっかりする。朝から30度の毎日では樹木のためにも夕立が恋しい。『雨の名前』(小学館・高橋順子著/佐藤秀明写真)という本があって、日本には何と美しい雨の言葉があるのだろうと感動する。~旱天の慈雨~は今まさに私の願いにぴったり寄り添う言葉。日照りつづきのところに降る雨のことで、困難な時に救いに恵まれること、また待ち望んでいたものがかなえられることをもいう。とある。 
 
 2024年7月31日(水)

 新聞やテレビ、ラジオというマスコミは日夜何か大事件はないか、人が驚くニュースはないかと思っている。 何もなければつまらないことでも面白い話に仕立てる。記者は特ダネを狙って目を光らせている。特ダネでなくても人が見落としているものに目を向けて欲しいと思うし、私も日常のささやかな出来事に心をとめたいと思う今日。 
 
 2024年7月30日(火)

 私は今とても複雑な気持ちでいる。今朝、テレビから泣き叫び続ける女性の声が聞こえた。子どもが思い通りにならなくてひっくり返って泣く声のようだったのでびっくりした。柔道の阿部詩が負けて号泣している声だった。試合を見ていなかったので、最初は勝って嬉しくて泣いているのかと思ったがあまりにも長く、異様な雰囲気だったので負けて泣いているのだと分かった。それについて賛否両論があると言う。現に知人は「泣き方が凄かった小学生が泣いているようで、可愛かった。あれだけ思いっきり泣けるのはスバラシイ」と言う感想。
もしインターネット上で肯定的な意見が圧倒的に多かったとするとそれに引きずられ、同調する人が増えそうな気がする。私の率直な感想を言うと、見苦しい聞き苦しい。オリンピックに限らず何かのコンクールでも出場者は皆全力で勝負する。優勝者は一人だけ。ほんのわずかな差で二位になったとしても人目をはばからず泣きわめく者はいない。人は絶望的な悲しみや苦しみに直面したら涙も出ない泣けない悲しさの方がよほどつらい。
 思い切り泣けたらすっとして立ち直りが早いものだ。阿部詩も今日になって謝罪したという。あれはなんだったのか、と思う。 
 
 2024年7月29日(月)

 熱中症になってはいけないので外出は控えるように、とニュースで言っていた。わざわざ炎天下を歩く必要はないが、仕事や大事な用事以外で出かけようとする時、外出は控えるようにとの忠告を無視するわけだから、責任を持って体調に気をつけなくては!と思う。
 喉が渇いてなくても水分をとるように、塩分をとるように、家の中ではエアコンを入れて、などなど親切なアドバイスを毎日耳にする。この頃ペットボトルを持ち歩いている人が多く、その光景を目にする度になんで私はその習慣が身につかないんだろうと思っている。お風呂に入る前に水分をとるのはだいぶ身についてきた。自分のことはさておき猫が水を飲んでいると安心する。 
 
 2024年7月28日(日)

 先ほど録画してあった番組を見たところなので、今そのことについて書きたい気持ちでいる。NHKEテレ『こころの時代~』宗教・人生~
ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」それでも人生には意味があるの4回目。人生という砂時計についての話。このような番組は見ごたえがある。「夜と霧」はフランクルの本はもちろんのこと、シャンソンのシンガーソングライタージャンフェラは1963年に『夜と霧』という作品を作っており、同年ACCディスク大賞を受賞した。ジャン・フェラはなぜこのような歌を作ったのか、彼の父親が1942年にアウシュヴィッツで殺されたからだ。ジャン・フェラが好きな私にすれば彼の大事な歌を避けて通れない。永田文夫先生に訳詞して頂き本邦初演でリサイタルで歌い、CDアルバムにも収録しているが日本では(私の力不足なのだろう)このような社会的な歌はなかなか受け入れられない。しかし、ヒットを狙う芸能界とは異なり本当に歌いたい歌を歌うシャンソンの世界だからこそ歌い続けていきたいと思う。
 
 
 2024年7月27日(土)

 今朝の朝日新聞で興味深い記事を読んだ。米共和党の副大統領候補J・D・バンズ氏が2021年に民主党のハリス氏に対して「惨めな思いをしている子どものいない『猫好きの女性たち』によって、この国は運営されている」と発言したことが今問題視されている。米国では「猫好きの女性」という言い回しは、子どもを持たず猫を飼っている中高年の女性を指し、中傷の意味合いで使われることが多いとか。中傷とは根拠のない嘘やでたらめを言って相手の名誉を傷つけることだから、そのようなことを言う人の人格を疑うがそうは言っても世の中では誹謗中傷が飛び交っている。私は面と向かって誹謗中傷されたことはないが、子どもを持たない猫好きの女性とはまさしく自分のこと。どんなに怖そうな人でもその人が猫好きだと分かると「いい人だ」と思ってしまうほどなので「猫好きの女性」などという表現は私には好ましく感じる。中傷の意味がなければ、だが。 
 それにしても何と幼稚なたとえだろう。「猫好きの女性」は孤独な女性とは。それに子どもがいないと惨めだと思うのは見当違いも甚だしい。 
 
 2024年7月26日(金)

 読みたい本が数冊机の上にのったまま。ついこの前は活字がないと落ち着かなかったのに、今はなくても平気になってしまった。これではいけないと言い聞かせている。母は本好きだった。二人の兄や叔父たちの影響が大きかったと思う。今も母の本を処分できずに本棚に置いている。紙は茶色に変色し、糊が乾いて乱暴に扱うとボロボロになってしまう。母の旧姓富和澄という名前が書いてあり、母の若かりし頃がしのばれる。姉と私は母から「本を読め」とよく言われたものだ。姉はよく読んでいた。私は姉ほどではない。とても文学少女とはいえず読み足りない。母は男性に対しても本を読む人を尊敬していたので姉も私もそのような傾向にある。
 このような場で書いてよいか分からないが…母はよく言っていた。
「男というものはクラシック音楽を聴き、本をよく読み、何かを尋ねたら何でも答えてくるものだと思っていた」と。理想像だったのだろう。現実には家の中でクラシック音楽が流れていたことはなかった。

 コロナで時間がたっぷりあったのだから本棚にある未読の書物を読めばよかったのにすぐ目が痛くなり読書が困難になってしまった。しかし、少しずつでも読んで本から遠ざかることがないようにしたいと思っている昨今。
 
 
 2024年7月24日(水)

 人間には笑いが大切だという。笑うと副交感神経が優位になり、免疫力を高めるとか。自律神経のバランスが整い心身が安定するなどなど。それで病院や高齢者施設では落語や漫才を催して人を笑わせようとするそしてデータをとって笑う人と笑わない人とを比較する。井戸端会議の話題でも「笑うことは身体にいいんですって」と言って明るく嬉しそうに笑う人が多い。確かに医学的根拠があるというが、可笑しくもないのに笑っている人をみると「何が面白いんだろう」と思ってしまう。
 以前母が高齢者施設にいるとき介護士さんが母に「笑って!」と言うと母はにたっという感じでそれに応えたのを見て情けない気持ちになった。母は介護士さんの言葉に反射的に応じただけだ。
 私はいつも穏やかな顔でいたいと思っているし、笑顔でいたいと心がけてはいるけれど人が笑うからと言って同調はしたくない。
 可笑しくなくても笑う顔をするだけでもいい、声を出して笑うのがいいと言われても、私は心から笑うことに意味があると思う。どういうことに喜びを感じるか、感動するかの内容や質が大事ではないかと。
 この間映画を見ていて感じた。笑いが起こるシーンがあったが、人はこういうところが面白いのかと不思議だったことがある。感性はひとそれぞれ。
 テレビに猫が出てくると思わず笑みが浮かぶ。テレビでなくてもいつも私の傍に猫がいるから幸せホルモン、セロトニンが出ている実感があり嬉しくなる。 
 
 2024年7月22日(月)

 こんな暑い夏は初めてのような気がします。冷房をつけて寝ると音と光が邪魔をし熟睡できない。2時3時に目が覚め、4時になると窓を開けたくなります。開けてもひんやりした空気が入ってくるわけでなし、そうこうしているうちに猫のアーモンも起きだし、私の顔舐めが始まります。ゴロゴロ喉を鳴らしながら顔中を舐め、次は枕と首の隙間に頭を突っ込み全身の力で私の頭を持ち上げるのです。アーモンの力に負けるまいと私も力を入れて抵抗します。それで駄目だとなったら
また顔舐め。朝からアーモンとドタバタ約1時間。
 5時になれば私の方は観念して起床し朝の日課を始めます。 我が家ではずっと猫を飼っていましたが、こんな猫ははじめてです。
ある年迷い猫を引きとって飼いだしたところ、突然亡くなりました。それから数年猫のいない生活でした。ペットショップで買うことはしない考えでしたから。両親も高齢となり猫との生活は諦めておりましたのに、母が「クルマの下に捨てられていた。ほっておいたらペチャンコになってしまう」と言って手の平に乗るほどの子猫を連れて帰ってきました。その猫は19年生き亡骸はクスノキの根元に埋めてやりました。

 それから7年半、もう猫は飼うまいと思っていましたのに縁あってアーモンは我が家の一員となりました。どこから来たのか庭で出会った猫。数か月は外猫として世話をしていましたが、寒く強い雨風の夜のこと、真っ暗闇の中においておくことなどできず「飼おう」と決心しました。それから2年余、顔舐めのない朝はありません。 
 
2024年7月19日(金)
 
 40年以上も拙宅の庭木の手入れを引き受けてくれていた植木屋さんが突然「看板を下ろすことにした」と。ついこの間は「年はいっても身体はまだ元気だから仕事続けますよ」と言われていましたのに。
85歳とのこと。高い木の剪定は危険ですが、まだまだ出来ることはあると思い、残念です。今朝挨拶に来られた時、木を見ながら涙ぐんでおられました。先日も熱心にシャンソンを習いに来られていた方が、もう限界で辞めると言われ寂しく思っていたのでした。その方は89歳。何でも「やめどき」があり、その見極めが難しいのですね。
 
 
2024年7月18日(木)

  昨日祇園祭に行ったものでふと平安時代に思いをはせました。源氏物語を全部読んだわけでもないのでえらそうなことを言う資格はありませんが。
何年も前に上村松園の展覧会で『焔』下絵を見たとき一目でこの絵に心惹かれました。何の知識もなく一体この絵は何を表しているのだろう、と思い続けているうちに上村松園の随筆を読んで謡曲「葵の上」からヒントを得て描いたと分かりました。
源氏物語に出てくる六条御息所の生霊の絵を『焔』という題にしたとのこと。この頃松園はスランプに陥っていて、どうにも切り抜けられない苦しみを六条御息所の画材に求めて一念をぶち込みその後苦しみから抜け出せたと書かれていました。
 六条御息所が光源氏を見たさに行ったのは葵祭。そこから生き霊となる話が発展していくのですね。恐ろしい女のように思う人もいるでしょうけれど、紫式部は人間誰しも心の奥底に持っている情念を六条御息所の存在で表したのだと思っています。
 
 
2024年7月17日(水)

今日、京都の祇園祭に行って来ました。10代の頃に両親と行って以来のこと。朝の6時過ぎに家を出て河原町についたのは8時、椅子の準備が出来るのを待つこと1時間。9時から山鉾巡行が始まりました長刀鉾を先頭に23基が巡行するのを暑さの中じっと待ち続ける約3時間。869年京都で流行った疫病を取り除くため八坂神社を中心に神事が行われるようになったのですね。日本古来のまつりなのに鉾に飾られたタペストリーには中国、オリエンタル、西洋の図柄が描かれていて不思議な気がしました。祇園祭には厄よけ、厄落としの意味がありますので、この1年いい年になるような気持ちになりました。
 
 
 2024年7月14日(日)

 今日はフランス革命記念日。日本ではパリ祭とよばれています。
 
 昔はよかった、などと過去を振り返り懐かしむ気持ちではありませんが、記録を見ておりますと7月になりますと連日パリ祭に因んだイベントが催され、東京、名古屋、京都、大阪、神戸、徳島などに歌いに行っておりました。今思えばバブル時代だったのですね。その時はそうは思わず、まだまだ頑張らなくては、と思っておりました。でも今は今。今が一番いい、という心情で生きていきたい。 
 2024年7月13日(土)

 朝の4時に目が覚めたので窓を開け、外の空気を胸いっぱいに吸い込み、しばらく雨あがりの土の匂いと木々の香りを味わっていました。(今パソコンのキーボードを打っている私の手の上に猫のアーモンが乗ってきて重くて不自由な状態で作業をしています)2日間雨でウオーキングが出来なかったので、今朝はようやく長居公園まで歩きラジオ体操をしてきました。ラジオ体操は日課になっていますので1日でも休むと気持ちが悪いのです。
 
 私が時間があれば映画を見たいと思うようになったのはコロナ禍になってからです。緊急事態宣言が解除されてからも世の中は自粛自粛。けれど家の中に閉じこもっているよりマスクをしてガラガラの映画館で優れた映画を鑑賞する方が精神状態によいと判断しました。
 今年の1月からは12本。よかったのもあれば期待外れのも。どれほど世間での評判がよくても私の感性に合わなければ感動には至りません。

1)枯れ葉 2)葬送のカーネーション 3)君たちはどう生きるか 4)人間魚雷回天 5)パーフェクト・ディズ 6)フェルメール 7)オッペンハイマー 8)死刑台のメロディ 9)ラ・カリファ 10)ジョン・レノン失われた週末 11)関心領域 12)90歳何がめでたい
 
 『人間魚雷回天』を見に行ったのは以前山口県光市でコンサートを開催したとき、回天の地に案内してもらったことがあるから。
『パーフェクトディズ』は学生時代の友人の夫がドイツ人で「ぜひ見てくれ」と言われて。『死刑台のメロディ』と『ラ・カリファ』はエンニオ・モリコーネ特選上映で、30年前にモリコーネの『自由の歌』を本邦初演で歌ったので。『関心領域』はアウシュヴィッツ収容所の隣りの広大な土地住む所長一家の平和な生活を描いており、ジャン・フェラの『夜と霧』を歌っている私にはこの実話を見ないわけにいかない。
 1年の前半に見た中で一番心に残ったのは 『オッペンハイマー』。原爆が投下された後の彼の苦悩の姿から人間にとって何が大事なのか、人間とは、を考えさせられました。
 
 今日見た『90歳何がめでたい』 佐藤愛子のエッセイの映画化は予想通りという感想。この本は読んでいません。ベストセラーになる本と内容の深い文学書とは違う。私は若い頃に読んだ『幸福の絵』には佐藤さんの力を感じました。さて、この映画から感じたことは、
人は何かすることがある、目標がある、生きがいがあることほど幸せなことはないと思っておりますので、一層その思いを強くしました。
 
 
 2024年7月11日(木)

 長い間「真祐美からひとこと」を書くことが出来ませんでした。再び(出来る限り)書いていこうと思っております。
 
 ※『真祐美通信』は1994年(平成6年)2月から発行

 まずは『真祐美通信』第93号1ページと4ページを掲載いたします。
 
●真祐美からひとこと
  約35年前、本屋で偶然『記者の目女の目』という本が目にとまり購入しました。その中で私は思いがけない事柄に出会い胸が高鳴りました。
 著者はジャーナリストの下村満子さん。執筆当時は朝日新聞記者、ニューヨーク特派員を経て論説委員をされていて、テレビでもよくお顔を拝見していました。
 私は幼児の頃、鏡に写る自分の目をじっと見つめながら、「私って何なんだろう」と考えることがよくありました。集中して目を凝視しているうちにぱっと時が止まり何とも言えない不思議な空間に入る。けれど一瞬で元に戻ります。一体これはどういう現象なのかずっと疑問に思っておりました。周りの誰も取り合ってくれません。ところが下村さんも子どもの頃、鏡ではないにせよ私と同じ体験をされていることが書かれていたのです。初めて共感しあえる方に出会えた!
本当に驚きでした。ただ遠い存在の方ですからお手紙を出すことなど思いもよらず、けれどどうしても自分ひとりの心に閉まっておけず、1992年に発刊した私の初めてのエッセイ集『愛ひとり旅』の中に下村満子さんの本で知った共通の心理のことを書きました。
 つい最近のことです。ネットのホームページで下村さんの連絡先が分かり、迷わずメールで、私が若い頃下村さんのご本を読んだこと、子どもの頃の妙な体験のことをお伝えしました。するとすぐに同じ体験をした人間がいることを受け止めて丁寧であたたかいお返事を下さいました。
 子どもの頃の出来事は思い出になっているだけですが、「私とは何か」の問いかけはまだ続いています。その答えを模索する中でシャンソン歌手という道を選んだのは確かです。

 真祐美から・・・私とはなにか、の私は自分さがしの私ではなく、生命の誕生の段階からの私、自分のこと。

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 ●第51回『中之島まつり』

 「中之島まつり」は1973年、中央公会堂を中心に、川と緑と赤レンガに象徴される中之島の貴重な景観を守ることを目的に始まりました。2002年、中央公会堂は国の重要文化財に指定。現在のまつりは市民の自発的な活動の場として「都市の広場」づくりを目指しています。中之島まつり世話人代表の森一貫さんは(帝塚山大学名誉教授と初めてお目にかかったのはこのまつりを始められたころでした。森さんは現在に至るまでまつりに力を注いでこられています。私は昨年の第50回の節目に初めて参加いたしました。
 5月3日~5日3日間の開催に向けて、実行委員やボランティアの方々は懸命に準備されました。出演者もまつり存続を願い各々寄付をし協力しております。
 中央公会堂近くに設営された野外メインステージ担当の中間正隆さんと南さおりさんは大奮闘大活躍。南京玉すだれの演目が終わると奧田真祐美の出番。大空の下の明るく広い空間で歌うことを考慮し選曲いたしました。
  古いパリの岸辺で
  ザ・ローズ
  千の風になって
  ただそれだけの人生でも
  時は過ぎてゆく
  クスノキのうた

選曲の妙、歌唱の妙
今西幸男 (奧田真祐美後援会長
             
 今年の「中之島まつり」も昨年同様、5月の晴れ渡った青空に奧田真祐美さんの美しい歌声が響きました。
 真祐美さんは1,2曲歌ったあとの舞台トークで、昨年亡くなられたお姉さまの想い出をしみじみと話されました。続いて『千の風になって』を歌ったのですが、さながら土佐堀川の川風に乗ったお姉さまの命に語り掛けるような歌声で、私の心の奥にしみいるようでした。
 真祐美さんがこれまで精魂込めて探究してきたジャン・フェラのシャンソンを含めて今回は全6曲の歌唱でしたが、最後は自作の『クスノキのうた』でした。歌う前のトークで、大阪市の保存樹に指定されている自庭のクスノキが、自分の生涯を見守ってくれる伴侶であることをしっかりと歌われました。
 コロナ禍による活動自粛の苦しみを乗り越えた真祐美さんは、最愛の肉親であったお姉さまを亡くされた悲しみも乗り越えて歌い続けることをクスノキに約束されました。選曲の妙と歌唱の妙とが相俟った舞台の成功であったといえましょう。 (京都大学名誉教授)

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 『真祐美通信』第93号4ページから 

 ●伊豆の国 アートビレッジ

 洋画家の中西繁さんは今から十年前「伊豆の国アートビレッジ」を開設。廃業していた伊豆の奈古谷温泉を買い取り、芸術家らが創作に励み作品を発表する場を作りました。新幹線三島から乗り換え函南駅下車、そこからクルマで11分。アートビレッジは山を背にして横長の敷地に建てられており、前は川、道の向こうは竹林が続いています。山を入れて6000坪。荒れていた元旅館を専門業者に頼まず自分達の手で少しずつ片づけ手を入れ掃除をして活動出来るようにしました。
 芸術を通し自由な交流の理想郷を目指す中西さんの創設の趣旨は、①助け合って創造活動をする ②自然との共生 ③地域の伝統を継承する、というもの。
 芸術村の設立を単に夢物語で終わらせない中西さんの熱意と実行力や人間性に惹かれ多くの方が各地から参加されています。皆さんが伊豆に集まるのは月1回。掃除も食事の支度も参加者が協力して行うのがこの会の決まりです。
 中西繁さんとは平成21年に大阪で大々的な「棄てられた街」という展覧会を開催されたとき、私の『夜と霧』との共通性を感じた知人の吉田慶子さんの紹介で知遇を得ました。その後冊子『インフォルモ』で私が担当していたインタビュー記事に登場して頂きました。それから時は流れ、このたび初めてアートビレッジを訪ねる機会に恵まれました。はじめての伊豆、新緑の美しい4月半ば。気楽に訪問のつりでおりましたところ中西さんから「アートビレッジの仲間に1時間半トークをするように」と仰せつかり、急遽トークの準備に入りました。毎月行われている土曜サロン、4月の参加者は約20名。トークのタイトル『歌は心の叫び』。子どもの頃の話から自由学園、婦人之友社、シャンソンのこと、銀巴里、ジャン・フェラのこと等々。トークの間に中西さん選曲の私のCDから4曲かけていただきました。
『理由もなく』『夜と霧』『もう一度愛を』『時は過ぎてゆく』
 手作りの夕食時にはひとりずつ恒例のスピーチで楽しみました。

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 ●小澤征爾さんのこと
 今年の2月6日に亡くなられた小澤征爾さんに1度だけお会いしたことがあります。1996年長野県松本で開かれた「サイトウ・キネン・フェスティバル」で初めて『語りと音楽』のプログラムが組まれ、姉の藤井いづみがストリーテラーとして出演することになりました。昔ばなしの持つ語りの音楽性を聴いてもらうという主旨です。仕事が一段落した小澤征爾さんが突然姉の楽屋に入って来られたのです。小澤征爾さんは私の赤い服を見て「面白い服だね」と言われた、それだけの思い出です。
 小澤征爾さんの兄上のドイツ文学者小澤俊夫先生(筑波大学名誉教授)は昔話の研究者。姉は俊夫先生に教えを受け、長年ご一緒に活動をしてきました。昨年6月に姉が亡くなった時には通夜(お別れ会)と葬儀両日お越し下さり、真心のこもった弔辞を語ってくださいました。俊夫先生は私の顔を見るなり「今日はお姉さんのお別れに歌わないの?ピアノないかなあ」と気遣って下さいましたが、予定にはなく急には準備も出来ず歌うことは出来ませんでした。
 小澤家には常に音楽があるのだと思いました。  
 『真祐美通信』第92号1ページから
 
 元旦はいつものように朝6時半からのラジオ体操に長居公園へ行きました。その習慣(元旦に行く)は9年目になりました。
 
 姉が亡くなって半年。昨年の今頃、姉は体力は低下していても精神力で時折テニスをしておりました。今もつくばの家でストリーテラーとして子どもたちにお話を語っているような気がしております。
 
 12月に開催したランチコンサートにどれくらいの方が来て下さるのか見当がつきませんでした。100人で満席となる会場、何人かお断りしたのは残念で申しわけないことでした。遠くは山口、東京、愛知からも。名古屋石田学園の石田正城理事長は「やはり本物の歌はいいですね」との感想を下さいました。
 長い間、納得のいく生き方を模索してまいりましたが、ようやく「答えなど出るわけはない」ことが分かりました。(ここまで書いて翌3日の朝日新聞の記事に目がとまりました。まさに私の思いに沿う言葉でした)
「ネガティブ・ケイパビリティ」
 年の初めに作家で精神科医・ははき木蓬生氏の言葉に出会い心に光りがさし込む気がしました。世の中は明確な答えのある問題ばかりではない、むしろ解決できない問題の方が多い。答えの出ない事態に耐える力。不安に耐えながら熟慮する。答えが出なくても問題に挑み続ける力、それも能力であると。
 

 昨年28本の映画を鑑賞しました。洋画19本、邦画9本。中で一番感動したのはシモーヌ・ヴェイユの生涯『シモーヌ』。TVでは映像の世紀『ガンジーの非暴力抵抗』でした。
 世界で行われている戦争を思う今、ガンジーの思想や生き方が心に突き刺さりました。  
 
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